最高裁判所大法廷 平成4年(行ツ)156号 判決 1997年4月02日
上告人
安西賢二
外一八名
右一九名訴訟代理人弁護士
西嶋吉光
菅原辰二
佐伯善男
東俊一
草薙順一
谷正之
薦田伸夫
高田義之
今川正章
水口晃
井上正実
津村健太郎
阿河準一
高村文敏
三野秀富
猪崎武典
久保和彦
西山司朗
堀井茂
渡辺光夫
平井範明
桑城秀樹
臼井滿
重哲郎
木田一彦
同訴訟復代理人弁護士
澤藤統一郎
藤田育子
加島宏
田中稔子
宮原哲朗
椛嶋裕之
被上告人
白石春樹
外七名
右八名訴訟代理人弁護士
黒田耕一
宮部金尚
白石誠
米田功
主文
原判決中主文第一項を破棄し、被上告人白石春樹の控訴を棄却する。
上告人らのその余の上告を棄却する。
前項の部分に関する上告費用は上告人らの負担とし、その余の部分に関する控訴費用及び上告費用は、被上告人白石春樹の負担とする。
理由
第一 上告代理人西嶋吉光、同菅原辰二、同佐伯善男、同東俊一、同草薙順一、同谷正之、同薦田伸夫、同高田義之、同今川正章、同水口晃、同井上正実、同津村健太郎、同阿河準一、同高村文敏、同三野秀富、同猪崎武典、同久保和彦、同西山司朗、同堀井茂、同渡辺光夫、同平井範明、同桑城秀樹、同臼井滿、同重哲郎、同木田一彦の上告理由について
一 事実関係及び訴訟の経過
1 原審の適法に確定した事実関係によれば、被上告人白石春樹が愛媛県知事の職にあった昭和五六年から同六一年にかけて、(1) 愛媛県(以下「県」という。)の東京事務所長の職にあった被上告人中川友忠が、宗教法人靖國神社(以下「靖國神社」という。)の挙行した春季又は秋季の例大祭に際して奉納する玉串料として九回にわたり各五〇〇〇円(合計四万五〇〇〇円)を、(2) 同じく同被上告人が、靖國神社の挙行した七月中旬の「みたま祭」に際して奉納する献灯料として四回にわたり各七〇〇〇円又は八〇〇〇円(合計三万一〇〇〇円)を、また、(3) 県生活福祉部老人福祉課長の職にあった被上告人泉田一洋、承継前被上告人亡須山晋吾、被上告人武田幸一、同山田清及び同八吹貫一が、宗教法人愛媛県護國神社(以下「護國神社」という。)の挙行した春季又は秋季の慰霊大祭に際して愛媛県遺族会を通じて奉納する供物料として九回にわたり各一万円(合計九万円)を、それぞれ県の公金から支出した(以下、これらの支出を「本件支出」という。)というのであるところ、本件は、本件支出が憲法二〇条三項、八九条等に照らして許されない違法な財務会計上の行為に当たるかどうかが争われた地方自治法二四二条の二第一項四号に基づく損害賠償代位請求住民訴訟である。
2 第一審は、本件支出は、その目的が宗教的意義を持つことを否定することができないばかりでなく、その効果が靖國神社又は護國神社の宗教活動を援助、助長、促進することになるものであって、本件支出によって生ずる県と靖國神社及び護國神社との結び付きは、我が国の文化的・社会的諸条件に照らして考えるとき、もはや相当とされる限度を超えるものであるから、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動に当たり、違法なものといわなければならないと判断した。
これに対して、原審は、本件支出は宗教的な意義を持つが、一般人にとって神社に参拝する際に玉串料等を支出することは過大でない限り社会的儀礼として受容されるという宗教的評価がされており、知事は、遺族援護行政の一環として本件支出をしたものであって、それ以外の意図、目的や深い宗教心に基づいてこれをしたものではないし、その支出の程度は、少額で社会的な儀礼の程度にとどまっており、その行為が一般人に与える効果、影響は、靖國神社等の第二次大戦中の法的地位の復活や神道の援助、助長についての特別の関心、気風を呼び起こしたりするものではなく、これらによれば、本件支出は、神道に対する援助、助長、促進又は他の宗教に対する圧迫、干渉等になるようなものではないから、憲法二〇条三項、八九条に違反しないと判断した。
二 本件支出の違法性に関する当裁判所の判断
原審の右判断は是認することができない。その理由は以下のとおりである。
1 政教分離原則と憲法二〇条三項、八九条により禁止される国家等の行為
憲法は、二〇条一項後段、三項、八九条において、いわゆる政教分離の原則に基づく諸規定(以下「政教分離規定」という。)を設けている。
一般に、政教分離原則とは、国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)は宗教そのものに干渉すべきではないとする、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味するものとされているところ、国家と宗教との関係には、それぞれの国の歴史的・社会的条件によって異なるものがある。我が国では、大日本帝国憲法に信教の自由を保障する規定(二八条)を設けていたものの、その保障は「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という同条自体の制限を伴っていたばかりでなく、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられた等のこともあって、同憲法の下における信教の自由の保障は不完全なものであることを免れなかった。憲法は、明治維新以降国家と神道が密接に結び付き右のような種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至ったのである。元来、我が国においては、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているのであって、このような宗教事情の下で信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結び付きをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であった。これらの点にかんがみると、憲法は、政教分離規定を設けるに当たり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものと解すべきである。
しかしながら、元来、政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であって、信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。そして、国家が社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するに当たって、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れることはできないから、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。さらにまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえって社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れない。これらの点にかんがみると、政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があることを免れず、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるをえないことを前提とした上で、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが問題とならざるを得ないのである。右のような見地から考えると、憲法の政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いを持つことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。
右の政教分離原則の意義に照らすと、憲法二〇条三項にいう宗教的活動とは、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いを持つすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。そして、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。
憲法八九条が禁止している公金その他の公の財産を宗教上の組織又は団体の使用、便益又は維持のために支出すること又はその利用に供することというのも、前記の政教分離原則の意義に照らして、公金支出行為等における国家と宗教とのかかわり合いが前記の相当とされる限度を超えるものをいうものと解すべきであり、これに該当するかどうかを検討するに当たっては、前記と同様の基準によって判断しなければならない。
以上は、当裁判所の判例の趣旨とするところでもある(最高裁昭和四六年(行ツ)第六九号同五二年七月一三日大法廷判決・民集三一巻四号五三三頁、最高裁昭和五七年(オ)第九〇二号同六三年六月一日大法廷判決・民集四二巻五号二七七頁参照)。
2 本件支出の違法性
そこで、以上の見地に立って、本件支出の違法性について検討する。
(一) 原審の適法に確定した事実関係によれば、被上告人中川らは、いずれも宗教法人であって憲法二〇条一項後段にいう宗教団体に当たることが明らかな靖國神社又は護國神社が各神社の境内において挙行した恒例の宗教上の祭祀である例大祭、みたま祭又は慰霊大祭に際して、玉串料、献灯料又は供物料を奉納するため、前記回数にわたり前記金額の金員を県の公金から支出したというのである。ところで、神社神道においては、祭祀を行うことがその中心的な宗教上の活動であるとされていること、例大祭及び慰霊大祭は、神道の祭式にのっとって行われる儀式を中心とする祭祀であり、各神社の挙行する恒例の祭祀中でも重要な意義を有するものと位置付けられていること、みたま祭は、同様の儀式を行う祭祀であり、靖國神社の祭祀中最も盛大な規模で行われるものであることは、いずれも公知の事実である。そして、玉串料及び供物料は、例大祭又は慰霊大祭において右のような宗教上の儀式が執り行われるに際して神前に供えられるものであり、献灯料は、これによりみたま祭において境内に奉納者の名前を記した灯明が掲げられるというものであって、いずれも各神社が宗教的意義を有すると考えていることが明らかなものである。
これらのことからすれば、県が特定の宗教団体の挙行する重要な宗教上の祭祀にかかわり合いを持ったということが明らかである。そして、一般に、神社自体がその境内において挙行する恒例の重要な祭祀に際して右のような玉串料等を奉納することは、建築主が主催して建築現場において土地の平安堅固、工事の無事安全等を祈願するために行う儀式である起工式の場合とは異なり、時代の推移によって既にその宗教的意義が希薄化し、慣習化した社会的儀礼にすぎないものになっているとまでは到底いうことができず、一般人が本件の玉串料等の奉納を社会的儀礼の一つにすぎないと評価しているとは考え難いところである。そうであれば、玉串料等の奉納者においても、それが宗教的意義を有するものであるという意識を大なり小なり持たざるを得ないのであり、このことは、本件においても同様というべきである。また、本件においては、県が特定の宗教団体の挙行する同種の儀式に対して同様の支出をしたという事実がうかがわれないのであって、県が特定の宗教団体との間にのみ意識的に特別のかかわり合いを持ったことを否定することができない。これらのことからすれば、地方公共団体が特定の宗教団体に対してのみ本件のような形で特別のかかわり合いを持つことは、一般人に対して、県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており、それらの宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすものといわざるを得ない。
被上告人らは、本件支出は、遺族援護行政の一環として、戦没者の慰霊及び遺族の慰謝という世俗的な目的で行われた社会的儀礼にすぎないものであるから、憲法に違反しないと主張する。確かに、靖國神社及び護國神社に祭られている祭神の多くは第二次大戦の戦没者であって、その遺族を始めとする愛媛県民のうちの相当数の者が、県が公の立場において靖國神社等に祭られている戦没者の慰霊を行うことを望んでおり、そのうちには、必ずしも戦没者を祭神として信仰の対象としているからではなく、故人をしのぶ心情からそのように望んでいる者もいることは、これを肯認することができる。そのような希望にこたえるという側面においては、本件の玉串料等の奉納に儀礼的な意味合いがあることも否定できない。しかしながら、明治維新以降国家と神道が密接に結び付き種々の弊害を生じたことにかんがみ政教分離規定を設けるに至ったなど前記の憲法制定の経緯に照らせば、たとえ相当数の者がそれを望んでいるとしても、そのことのゆえに、地方公共団体と特定の宗教とのかかわり合いが、相当とされる限度を超えないものとして憲法上許されることになるとはいえない。戦没者の慰霊及び遺族の慰謝ということ自体は、本件のように特定の宗教と特別のかかわり合いを持つ形でなくてもこれを行うことができると考えられるし、神社の挙行する恒例祭に際して玉串料等を奉納することが、慣習化した社会的儀礼にすぎないものになっているとも認められないことは、前記説示のとおりである。ちなみに、神社に対する玉串料等の奉納が故人の葬礼に際して香典を贈ることとの対比で論じられることがあるが、香典は、故人に対する哀悼の意と遺族に対する弔意を表するために遺族に対して贈られ、その葬礼儀式を執り行っている宗教家ないし宗教団体を援助するためのものではないと一般に理解されており、これと宗教団体の行う祭祀に際して宗教団体自体に対して玉串料等を奉納することとでは、一般人の評価において、全く異なるものがあるといわなければならない。また、被上告人らは、玉串料等の奉納は、神社仏閣を訪れた際にさい銭を投ずることと同様のものであるとも主張するが、地方公共団体の名を示して行う玉串料等の奉納と一般にはその名を表示せずに行うさい銭の奉納とでは、その社会的意味を同一に論じられないことは、おのずから明らかである。そうであれば、本件玉串料等の奉納は、たとえそれが戦没者の慰霊及びその遺族の慰謝を直接の目的としてされたものであったとしても、世俗的目的で行われた社会的儀礼にすぎないものとして憲法に違反しないということはできない。
以上の事情を総合的に考慮して判断すれば、県が本件玉串料等を靖國神社又は護國神社に前記のとおり奉納したことは、その目的が宗教的意義を持つことを免れず、その効果が特定の宗教に対する援助、助長、促進になると認めるべきであり、これによってもたらされる県と靖國神社等とのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものであって、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動に当たると解するのが相当である。そうすると、本件支出は、同項の禁止する宗教的活動を行うためにしたものとして、違法というべきである。これと異なる原審の判断は、同項の解釈適用を誤るものというほかはない。
(二) また、靖國神社及び護國神社は憲法八九条にいう宗教上の組織又は団体に当たることが明らかであるところ、以上に判示したところからすると、本件玉串料等を靖國神社又は護國神社に前記のとおり奉納したことによってもたらされる県と靖國神社等とのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと解されるのであるから、本件支出は、同条の禁止する公金の支出に当たり、違法というべきである。したがって、この点に関する原審の判断も、同条の解釈適用を誤るものといわざるを得ない。
三 被上告人らの損害賠償責任の有無
原審は、右の誤った判断に基づき、本件支出に違法はないとして、上告人らの請求をいずれも棄却すべきであるとしたが、以上のとおり、本件支出は違法であるというべきであるから、更に進んで、被上告人らの損害賠償責任の有無について検討することとする。
原審の適法に確定した事実関係によれば、本件支出の当時、本件支出の権限を法令上本来的に有していたのは、知事の職にあった被上告人白石であったところ、本件支出のうち靖國神社に対してされたものについては、県の規則により県東京事務所長に対し権限が委任され、その職にあった被上告人中川がこれを行ったのであり、また、本件支出のうち護國神社に対してされたものについては、県の規則及び訓令により県生活福祉部老人福祉課長に専決させることとされ、その職にあった被上告人泉田、承継前被上告人亡須山、被上告人武田、同山田及び同八吹(以下、被上告人中川を含め、これらの者を「被上告人中川ら」という。)がそれぞれこれを行ったというのである。
右のように、被上告人白石は、自己の権限に属する本件支出を補助職員である被上告人中川らに委任し、又は専決により処理させたのであるから、その指揮監督上の義務に違反し、故意又は過失によりこれを阻止しなかったと認められる場合には、県に対し右違法な支出によって県が被った損害を賠償する義務を負うことになると解すべきである(最高裁平成二年(行ツ)第一三七号同三年一二月二〇日第二小法廷判決・民集四五巻九号一四五五頁、最高裁昭和六二年(行ツ)第一四八号平成五年二月一六日第三小法廷判決・民集四七巻三号一六八七頁参照)。原審の適法に確定したところによれば、被上告人白石は、靖國神社等に対し、被上告人中川らに玉串料等を持参させるなどして、これを奉納したと認められるというのであり、本件支出には憲法に違反するという重大な違法があること、地方公共団体が特定の宗教団体に玉串料、供物料等の支出をすることについて、文部省、自治省等が、政教分離原則に照らし、慎重な対応を求める趣旨の通達、回答をしてきたことなどを考慮すると、その指揮監督上の義務に違反したものであって、これにつき少なくとも過失があったというのが相当である。したがって、被上告人白石は、県に対し、違法な本件支出により県が被った本件支出金相当額の損害を賠償する義務を負うというべきである。
これに対し、被上告人中川らについては、地方自治法二四三条の二第一項後段により損害賠償責任の発生要件が限定されており、本件支出行為をするにつき故意又は重大な過失があった場合に限り県に対して損害賠償責任を負うものであるところ、原審の適法に確定したところによれば、被上告人中川らは、いずれも委任を受け、又は専決することを任された補助職員として知事の前記のような指揮監督の下で本件支出をしたというのであり、しかも、本件支出が憲法に違反するか否かを極めて容易に判断することができたとまではいえないから、被上告人中川らがこれを憲法に違反しないと考えて行ったことは、その判断を誤ったものではあるが、著しく注意義務を怠ったものとして重大な過失があったということはできない。そうすると、被上告人白石以外の被上告人らは県に対し損害賠償責任を負わないというべきである。
四 結論
以上によれば、上告人らの被上告人白石に対する請求は、これを認容すべきであり、その余の被上告人らに対する請求は、これを棄却すべきであるところ、これと同旨の第一審判決は、結論において是認し得るから、第一審判決のうち上告人らの被上告人白石に対する請求に係る部分を取り消して同請求を棄却した原判決主文第一項は、破棄を免れず、右部分については、同被上告人の控訴を棄却すべきであり、上告人らのその余の被上告人らに対する控訴を棄却した原判決主文第二項に対する上告は、理由がないとして、これを棄却すべきである。
第二 真鍋知巳の上告取下げの効力について
本件上告を申し立てた者のうち真鍋知巳は、平成六年七月七日、上告を取り下げる旨の書面を当裁判所に提出した。そこで、職権により、右上告取下げの効力について判断する。
本件は、地方自治法二四二条の二に規定する住民訴訟である。同条は、普通地方公共団体の財務行政の適正な運営を確保して住民全体の利益を守るために、当該普通地方公共団体の構成員である住民に対し、いわば公益の代表者として同条一項各号所定の訴えを提起する権能を与えたものであり、同条四項が、同条一項の規定による訴訟が係属しているときは、当該普通地方公共団体の他の住民は、別訴をもって同一の請求をすることができないと規定しているのは、住民訴訟のこのような性質にかんがみて、複数の住民による同一の請求については、必ず共同訴訟として提訴することを義務付け、これを一体として審判し、一回的に解決しようとする趣旨に出たものと解される。そうであれば、住民訴訟の判決の効力は、当事者となった住民のみならず、当該地方公共団体の全住民に及ぶものというべきであり、複数の住民の提起した住民訴訟は、民訴法六二条一項にいう「訴訟ノ目的カ共同訴訟人ノ全員ニ付合一ニノミ確定スヘキ場合」に該当し、いわゆる類似必要的共同訴訟と解するのが相当である。
ところで、類似必要的共同訴訟については、共同訴訟人の一部の者がした訴訟行為は、全員の利益においてのみ効力を生ずるとされている(民訴法六二条一項)。上訴は、上訴審に対して原判決の敗訴部分の是正を求める行為であるから、類似必要的共同訴訟において共同訴訟人の一部の者が上訴すれば、それによって原判決の確定が妨げられ、当該訴訟は全体として上訴審に移審し、上訴審の判決の効力は上訴をしなかった共同訴訟人にも及ぶものと解される。しかしながら、合一確定のためには右の限度で上訴が効力を生ずれば足りるものである上、住民訴訟の前記のような性質にかんがみると、公益の代表者となる意思を失った者に対し、その意思に反してまで上訴人の地位に就き続けることを求めることは、相当でないだけでなく、住民訴訟においては、複数の住民によって提訴された場合であっても、公益の代表者としての共同訴訟人らにより同一の違法な財務会計上の行為又は怠る事実の予防又は是正を求める公益上の請求がされているのであり、元来提訴者各人が自己の個別的な利益を有しているものではないから、提訴後に共同訴訟人の数が減少しても、その審判の範囲、審理の態様、判決の効力等には何ら影響がない。そうであれば、住民訴訟については、自ら上訴をしなかった共同訴訟人をその意に反して上訴人の地位に就かせる効力までが行政事件訴訟法七条、民訴法六二条一項によって生ずると解するのは相当でなく、自ら上訴をしなかった共同訴訟人は、上訴人にはならないものと解すべきである。この理は、いったん上訴をしたがこれを取り下げた共同訴訟人についても当てはまるから、上訴をした共同訴訟人のうちの一部の者が上訴を取り下げても、その者に対する関係において原判決が確定することにはならないが、その者は上訴人ではなくなるものと解される。最高裁昭和五七年(行ツ)第一一号同五八年四月一日第二小法廷判決・民集三七巻三号二〇一頁は、右と抵触する限度において、変更すべきものである。
したがって、真鍋知巳は、上告の取下げにより上告人ではなくなったものとして、本判決をすることとする。
よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇八条、三九六条、三八四条、九六条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官大野正男、同福田博の各補足意見、裁判官園部逸夫、同高橋久子、同尾崎行信の各意見、裁判官三好達、同可部恒雄の各反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
判示第一の二についての裁判官大野正男の補足意見は、次のとおりである。
私は、多数意見に賛同するものであるが、多数意見第一の二につき、私の意見を補足しておきたい。
一 本件行為の目的について
本件で重視されなければならないのは、玉串料等の奉納が、戦没者の慰霊、遺族の慰謝を目的とするものであるといっても、それはあくまで靖國神社、護國神社という特定の宗教団体の祭祀に対してされているという事実である。その点を捨象して、単に、地方公共団体が戦没者の慰霊等を行うことに宗教的意義があるか否かとか、あるいはそれが社会的儀礼に当たるか否かとかを論ずることは、事柄の本筋を見落とすものである。
被上告人白石は、本件玉串料等の支出目的は、同人の支持団体であり同人が会長を務める県遺族会の要請にこたえ、県の行う戦没者の慰霊、遺族の慰謝という遺族援護行政の一環として行ったものであって、特段の宗教的意識を持って行ったものではない旨主張している。
しかし、憲法二〇条三項にいう宗教的活動に当たるか否かの判断基準の一となるべき行為の目的は、当該行為者の主観的、内面的な感情の有無や濃淡によってのみ判断されるべきではなく、その行為の態様等との関連において客観的に判断されるべきものであり、とりわけ支出が宗教団体の世俗的な行為ではなくその宗教的な行為そのものに向けられているときは、世俗的目的もあるからといって、その行為の客観的目的の宗教的意義が直ちに否定されるものではない。
本件支出行為は、一面において遺族の援護という行政的な目的を有するとしても、その対象が靖國神社等の最も重要な祭祀であって本来の行政の範囲に属する世俗的行為ではないから、直接的に特定の宗教団体の宗教儀式そのものへの賛助を目的としているといわざるを得ず、その宗教的意義を否定することはできない。
二 本件行為の効果について
被上告人白石は、本件玉串料等の奉納は戦没者慰霊等のためにされた少額のもので社会的儀礼であり、宗教に対する関心を特に高めたり、その援助、助長をするようなものではないと主張している。
本件玉串料等の支出は相当年数にわたり継続して行われているとはいえ、一回の金員は五〇〇〇円ないし一万円程度のものであるから、経済的にみれば、宗教に対する援助、助長に当たるとは必ずしもいえないとの議論もあり得るかもしれない。しかしながら、政教分離原則の適用を検討するに当たっては、当該行為の外形的、経済的な側面のみにとらわれるべきでなく、社会的、歴史的条件に即してその実質をみる必要があり、社会に与える無形的なあるいは精神的な効果や影響をも考慮すべきである。そして、その観点よりすれば、以下に述べるとおり、その影響、効果は大きいといわざるを得ない。
1 多数意見の述べるとおり、我が国においては各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存しているが、戦没者、戦争犠牲者の慰霊、追悼については各種の宗教団体がそれぞれの教義、教理、祭式に基づいてこれを執り行っているのであって、その中にあって地方公共団体が靖國神社等による戦没者慰霊の祭祀にのみ賛助することは、その祭祀を他に比して優越的に選択し、その宗教的価値を重視していると一般社会からみられることは否定し難く、特定の宗教団体に重要な象徴的利益を与えるものといわざるを得ない。およそ公的機関は、すべての、いかなる宗教をも援助、助長してはならないが、中でも併存する宗教団体のうちから特定の宗教団体を選択してその宗教儀式を賛助することは、政教分離の中心をなす国家の宗教的中立に反するものである。
2 地方公共団体による靖國神社等への玉串料等の公金の支出の世俗的影響も、無視することはできない。
宗教的祭祀に起源を有する儀式等が多くの歳月を経てその宗教的意義が希薄になり、社会的儀礼や風俗として残っていることもまれではない。このような場合に公的機関がこれを行ったり参加したりしても、特定の宗教団体を支持していると受け取られることはなく、また、社会関係の円滑な維持のため役立つことはあっても、社会に対立をもたらすことは考え難い。しかし、公的機関が靖國神社等の祭祀に公金を支出してこれを賛助することについては、靖國神社に崇敬の念を持つ人々や靖國神社を戦没者の慰霊の中心的施設と考える人々は、これに満足と共感を覚えるかもしれないが、神道と教義を異にする宗教団体に属する人々や、靖國神社が国家神道の中枢的存在であるとしてそれへの礼拝を強制されたことを記憶する人々、あるいは靖國神社に合祀されている者は主として軍人軍属及び準軍属であって一般市民の戦争犠牲者のほとんどが含まれていないことに違和感を抱く人々は、これに不満と反感を持つかもしれない。そのような対立は、宗教的分野ばかりではなく、社会的、政治的分野においても起こり得ることである。公的機関が宗教にかかわりを持つ行為をすることによって、広く社会にこのような効果を及ぼすことは、公的機関を宗教的対立に巻き込むことになり、同時に宗教を世俗的対立に巻き込むことにもなるのであって、社会的儀礼や風俗として容認し得る範囲を超え、公的機関と宗教団体のいずれにとっても害をもたらすおそれを有するといわざるを得ない。そのようなことを避けることこそ、厳格な政教分離原則の規範を憲法が採用した趣旨に合致するものである。
三 被上告人白石は、靖國神社は我が国における戦没者慰霊の中心的存在であるから、その祭祀に地方公共団体が玉串料を奉納することは社会的儀礼であると主張する。
しかしながら、玉串料の奉納に儀礼的な意味合いがあるとしても、また、我が国近代史の一時期に靖國神社が戦没者の中心的慰霊施設として扱われたことがあるとしても、それを理由に政教分離原則の例外扱いを認めるべきものではない。
憲法二〇条三項、八九条が厳格な政教分離原則を採用しているのは、多数意見引用の昭和五二年七月一三日大法廷判決及び多数意見が繰り返し判示しているように、明治維新以降の我が国の社会において国家と神道が結び付き、国家神道に対して事実上国教的な地位が与えられ、その信仰が要請され、一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられた歴史的経緯に基づくものであるが、このような政教の融合が生じたのも、「神社は宗教にあらず」ということを理由に、神道的祭祀や儀礼を世俗的な次元で社会的規範として取り入れ、また、臣民の義務であるとして事実上強制したからである。憲法は、第二次大戦後このような歴史的経験にかんがみて、信教の自由を国民の基本的人権として、これに強い保障を与えるとともに、国家と宗教が融合することは信教の自由に対する侵害になる危険性が高いことを認識して、その制度的保障として政教分離原則を採用し、前記規定を設けたものである。この立法の経緯及び趣旨に照らせば、右各条項は公的機関に対し強い規範性を有するものと解すべきであるから、我が国社会の中に、靖國神社に崇敬の念を持つ人々がいることは事実であり、また、それは信教の自由の保障するところでもあるが、いやしくも公的機関が特定の宗教団体である靖國神社等に対し、公金を使用して玉串料等を奉納し特別の敬意を表することは、先に述べたとおり、その目的、効果を実質的にみれば、戦没者の慰霊、追悼について公的機関が特定の宗教団体との特別のかかわり合いを示すことは明らかであって、右憲法条項の規範性に照らし到底許されないことである。そして、このことは、単に靖國神社に対してのみ許されないことではなく、あらゆる宗教団体に対しても同様であることはもちろんである。
判示第一の二についての裁判官福田博の補足意見は、次のとおりである。
私は、多数意見に賛成するものであるが、この機会に、我が国における信教の自由について私が考えていることを若干補足して述べておきたい。
信教の自由は、各種の人権の中でも最も基本的な自由権の一つとして、近代民主主義国家にあってその擁護が重視されているものである。多数意見に述べられているとおり、憲法に定める政教分離規定も、そのような信教の自由を一層確実なものとするための制度的保障として設けられたものである。
我が国においては、神道は年中行事や冠婚葬祭などを通じて多くの国民の生活に密接に結び付いており、そのような行事や儀式への参加が自然なこととして受け入れられている部分があることは事実である。とはいえ、神道も宗教の一つであることは、信教の自由を保障する憲法二〇条が当然の前提としているところでもある。したがって、政教分離規定を適用して国(地方公共団体を含む。以下同じ。)の宗教へのかかわりをどこまで許すかを検討する際は、政教分離の原則が目指す国の非宗教性ないし宗教的中立性の理念は、神道を含むあらゆる宗教についてひとしく当てはまる理念であることを常に念頭に置くことが、不可欠であると考える。
また、政教分離規定は、信教の自由を保障するために設けられたものであり、その適用に当たっては、国のかかわりを認めることにつき基本的に慎重な態度で臨むことが重要であると考える。なぜならば、国のかかわりを認めても差し支えないとされたことが結果的には国の信教の自由への過剰な関与(ひいては干渉ないし強制)につながることとなった事例が、諸国の歴史の中に散見されるからである。そして、このような慎重な態度を維持することは、緊密化する国際間の交流を通じ国民が様々な宗教に接する機会が増えつつある今日、我が国が信教の自由を保障し、いかなる信仰についても寛容であることを確保していく上でも、重要でないかと考えるのである。
判示第一の二についての裁判官園部逸夫の意見は、次のとおりである。
本件支出が違法な公金の支出に当たるということについては、私も多数意見と結論を同じくするものであるが、その理由(多数意見第一の二)については、見解を異にする。
我が国には、戦前から、戦没者追悼慰霊の中心的施設として、靖國神社及び護國神社が置かれているが、原審の判断及び被上告人らの主張はいずれも、これらの神社が通常の宗教施設と異なった意義を有することを強調している。しかしながら、靖國神社及び護國神社は、戦後の法制度の改革により、他の宗教団体と同等の地位にある宗教団体(宗教法人)となっており、その施設は、通常の宗教施設である。
私は、右のことを前提とした上で、本件における公金の支出は、公金の支出の憲法上の制限を定める憲法八九条の規定に違反するものであり、この一点において、違憲と判断すべきものと考える。
一般に、葬式・告別式等の際にお悔やみとして供される金員は、社会通念上、特定の故人の遺族を直接の対象とし社会的儀礼の範囲に属する支出とみられている。これと異なり、宗教団体の主催する恒例の宗教行事のために、当該行事の一環としてその儀式にのっとった形式で奉納される金員は、当該宗教団体を直接の対象とする支出とみるべきである。したがって、右のような金員を公金から支出した行為は、一面において、その支出の財務会計上の費目、意図された支出の目的、支出の形態、支出された金額等に照らし社会的儀礼の範囲に属するとみられるところがあったとしても、詰まるところ、当該宗教団体の使用(宗教上の使用)のため公金を支出したものと判断すべきであって、このような支出は、宗教上の団体の使用のため公金を支出することを禁じている憲法八九条の規定に違反するものといわなければならない。
これを本件についてみると、原審の適法に確定した事実関係によれば、被上告人中川らは、靖國神社又は護國神社が各神社の境内において挙行した恒例の祭祀である例大祭、みたま祭又は慰霊大祭に際して、玉串料、献灯料又は供物料を奉納するため、多数意見第一の一掲記の回数及び金額の金員を県の公金から支出したというのであるから、右の金員は、靖國神社又は護國神社の使用のため支出したものと認めるのを相当とする。したがって、右の支出は、憲法八九条の右規定に違反する違法な公金の支出というべきである。
ここで、二つのことを付言しておきたい。まず、従来の最高裁判所判例は、公金を宗教上の団体に対して支出することを制限している憲法八九条の規定の解釈についても、憲法二〇条三項の解釈に関するいわゆる目的効果基準が適用されるとしているが、私は、右基準の客観性、正確性及び実効性について、尾崎裁判官の意見と同様の疑問を抱いており、特に、本判決において、その感を深くしている。しかし、その点はさておき、本件において、憲法八九条の右規定の解釈について、右基準を適用する必要はないと考える。
次に、本件の争点である公金の支出の違憲性の判断について、当該支出が憲法八九条の右規定に違反することが明らかである以上、憲法二〇条三項に違反するかどうかを判断する必要はない。私は、およそ信教に関する問題についての公の機関の判断はできる限り謙抑であることが望ましいと考える。「為政者の全権限は、魂の救済には決して及ぶべきでなく、また及ぶことが出来ない。」(ジョン・ロック。種谷春洋『近代寛容思想と信教自由の成立』二三〇頁以下参照)
判示第一の二についての裁判官高橋久子の意見は、次のとおりである。
私は多数意見の結論には賛成するが、その結論に至る説示のうち第一の二には同調することができないので、その点に関する私の意見を明らかにしておきたい。
一 我が国憲法は、二〇条に、信教の自由は、何人に対してもこれを保障する、いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない(一項)、何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない(二項)、国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない(三項)と規定し、さらに、八九条に、公の財産は、宗教上の組織又は団体の使用、便益又は維持のため、支出してはならない旨定めている。これは、大日本帝国憲法における信教の自由を保障する規定が極めて不十分で、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、それに対する信仰が強制されるとともに、一部の宗教団体に対しては厳しい迫害が加えられるなど、明治維新以降国家と神道が密接に結び付き種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、その保障を確実ならしめるため政教分離規定を設けるに至ったのである。
憲法は、信教の自由が人間の精神的自由の中核をなす基本的人権であり、我が国においては前述のような歴史的事情があったことにかんがみ、信教の自由を無条件に保障するのみでなく、国家といかなる宗教との結び付きも排除するために、国家と宗教との完全な分離を理想として、国家の宗教的中立性を確保しようとしたものと解される。このことは、多数意見でも認めているところである。
しかしながら、多数意見は、「政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であって、信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。」とした上、「国家が社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するに当たって、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れることはできないから、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。さらにまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえって社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れない。」、「政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があることを免れず、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないことを前提とした上で、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが問題とならざるを得ないのである。」、「(政教分離原則は)国家が宗教とのかかわり合いを持つことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。」として、憲法のいう「国家と宗教との完全な分離」を「理想」として棚上げし、国家は実際上、宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないことを前提とした上で、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないというのである。
この考え方によれば、憲法二〇条三項にいう宗教的活動とは、国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いを持つすべての行為を指すものではなく、「当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうもの」とされ、ある行為が宗教的活動に該当するか否かについては、「当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。」ということになる。
この考え方は、多数意見引用の昭和五二年七月一三日大法廷判決(以下「地鎮祭判決」という。)に示され、いわゆる目的・効果基準としてその後の宗教に関する裁判に大きな影響を与えたものであって、多数意見は、これに依拠して、本判決の枠組みとしているが、私は、この目的・効果基準についていくつかの疑問を持たざるを得ない。
二 第一に、多数意見は、憲法のいう「国家と宗教との完全な分離」は理想であって、これを実現することは「不可能に近く」、これを完全に貫こうとすれば、「各方面に不合理な事態を生ずる」というが、果たしてそうであろうか。地鎮祭判決の挙げている不合理な事態の例は、特定宗教と関係のある私立学校への助成、文化財である神社、寺院の建築物や仏像等の維持保存のための宗教団体に対する補助、刑務所等における教誨活動等であるが、これらについては、平等の原則からいって、当該団体を他団体と同様に取り扱うことが当然要請されるものであり、特定宗教と関係があることを理由に他団体に交付される助成金や補助金などが支給されないならば、むしろ、そのことが信教の自由に反する行為であるといわなければならない。このような例は、政教分離原則を国家と宗教との完全な分離と解することによって生ずる不合理な事態とはいえず、国家と宗教との完全な分離を貫くことの妨げとなるものとは考えられないのである。
私も、「完全分離」が不可能あるいは不適当である場合が全くないと考えているわけではない。クリスマスツリーや門松のように習俗的行事化していることがだれの目にも明らかなものもないわけではなく、他にも同様の取扱いをする理由を有するケースが全くないと断定することはできない。しかし、「いかなる宗教的活動もしてはならない。」とする憲法二〇条三項の規定は、宗教とかかわり合いを持つすべての行為を原則として禁じていると解すべきであり、それに対して、当該行為を別扱いにするには、その理由を示すことが必要であると考える。すなわち、原則はあくまでも「国家はいかなる宗教的活動もしてはならない」のである。ところが、多数意見は、「国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないことを前提とした上で」と、前提条件を逆転させている。
憲法二〇条三項の規定が、我が国の過去の苦い経験を踏まえて国家と宗教との完全分離を理想としたものであることを考えると、目的・効果基準によって宗教的活動に制限を付し、その範囲を狭く限定することは、憲法の意図するところではないと考えるのである。
三 第二は、多数意見が、「(国家と宗教との)かかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さない」、さらに、「諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。」と、現実の姿を判断の尺度としていることである。前述のとおり、我が国において国家神道に国教的な地位が与えられ、その結果種々の弊害を生じたことは周知の事実であり、憲法は、その反省の上に立って信教の自由を無条件で保障し、それを確実ならしめるために国家と宗教との完全な分離を理想として二〇条の規定を設けたものと考えられるが、信教の自由は、心の深奥にかかわる問題であるだけに、いまだに国家神道の残滓が完全に払拭されたとはいい難い。また、我が国においては宗教は多元的・重層的に発展してきており、国民一般の宗教に対する関心は必ずしも高くはなく、異なった宗教に対して極めて寛容である。特定の宗教に帰依するからといって他宗教を排他的に取り扱うことはなく、このことは、戦前、国家神道が各家庭の中で宗教というよりも超宗教的存在として生活の規範をなし、多くの弊害をもたらす土壤となったと思われる。宗教的感覚において寛容であるということは、それ自体として悪いとはいえないであろうが、宗教が国民一般の精神のコントロールを容易になし得る危険性をはらんでいるともいえる。その意味からも政教分離原則は厳格に遵守されるべきであって、「社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度」、「社会通念に従って、客観的に判断」というように、現実是認の尺度で判断されるべき事柄ではないと思うのである。
四 第三は、いわゆる目的・効果基準は極めてあいまいな明確性を欠く基準であるということである。多数意見は、「(国家が)宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものである」というが、「社会的・文化的諸条件」とは何か、「相当とされる限度」というのはどの程度を指すのか、明らかではない。ある行為が宗教的活動に該当するか否かを判断するに当たって考慮する事情として、「当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。」、そして、「ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。」としているが、これらの事情について何をどのように評価するかは明らかではない。いわば目盛りのない物差しである。したがって、この基準によって判断された地鎮祭判決後の判決が、同じ事実を認定しながら結論を異にするものが少なくない。
殉職自衛隊員たる亡夫を山口県護國神社に合祀されたことに関し、キリスト教徒である妻から国家賠償法に基づく損害賠償請求について、一、二審判決は、県隊友会の同神社に対する合祀申請に自衛隊職員が関与した行為が憲法二〇条三項にいう宗教的活動に当たるとしたが、多数意見引用の昭和六三年六月一日大法廷判決は、右行為は宗教的活動に当たらないとした。
箕面市が忠魂碑の存する公有地の代替地を買い受けて忠魂碑の移設・再建をした行為、地元の戦没者遺族会に対しその敷地として右代替地を無償貸与した行為等が右の宗教的活動に該当するかどうかが争われた裁判では、一審判決は、右行為が宗教的活動に当たると判断したが、二審判決は、これを否定し、最高裁平成五年二月一六日第三小法廷判決も、宗教的活動には当たらないとした。
本件についても、一審判決と原判決とでは、同じ目的・効果基準によって判断しながら結論は反対であるし、本判決においても、多数意見と反対意見とでは、同じ認定事実の下にいずれも地鎮祭判決の目的・効果基準に依拠するとしつつ全く反対の結論に到達しているのであって、これをみても、地鎮祭判決の示す基準が明確な指針たり得るかどうかに疑問を禁じ得ないのである。
以上のとおり、目的・効果基準は、基準としては極めてあいまいなものといわざるを得ず、このようなあいまいな基準で国家と宗教とのかかわり合いを判断し、憲法二〇条三項の宗教的活動を限定的に解することについては、国家と宗教との結び付きを許す範囲をいつの間にか拡大させ、ひいては信教の自由もおびやかされる可能性があるとの懸念を持たざるを得ない。
五 私は、憲法二〇条の規定する政教分離原則は、国家と宗教との完全な分離、すなわち、国家は宗教の介入を受けず、また、宗教に介入すべきではないという国家の非宗教性を意味するものと思うのである。信教の自由に関する保障が不十分であったことによって多くの弊害をもたらした我が国の過去を思うとき、政教分離原則は、厳格に解されるべきことはいうまでもない。
したがって、私は、完全な分離が不可能、不適当であることの理由が示されない限り、国が宗教とかかわり合いを持つことは許されないものと考える。県の公金から靖國神社の例大祭、みたま祭に玉串料、献灯料を、護國神社の慰霊大祭に供物料を奉納するため金員を支出した本件各行為は、いずれもそのような例外に当たるものとは到底いえないことが明らかであり、違憲というほかはない。
判示第一の二についての裁判官尾崎行信の意見は、次のとおりである。
私は、多数意見の結論には同調するが、多数意見のうち第一の二については賛成することができないので、その点についての私の意見を明らかにしておきたい。
一 政教分離規定の趣旨・目的と合憲性の判断基準
多数意見引用の昭和五二年七月一三日大法廷判決及び多数意見も説示しているとおり、憲法は、大日本帝国憲法下において信教の自由の保障が不十分であったため種々の弊害が生じたことにかんがみ、信教の自由を無条件に保障し、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けたものであり、これを設けるに当たっては、国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものと解すべきである。右大法廷判決は、右の説示に続けて、国家が諸施策を実施するに当たり宗教とのかかわり合いを生ずることは免れ難く、国家と宗教との完全分離を実現することは実際上不可能に近いし、これに固執すればかえって社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れないとし、完全分離の理想を貫徹し得ない例として、宗教関係の私立学校への助成等を挙げている。なるほど平等権や信教の自由を否定する結果を招くような完全分離は不合理極まりないとみることができるから、こうした憲法的価値を確保することができるよう考慮を払うことには理由があり、厳格な完全分離の例外を一定限度で許し、柔軟に対応する余地を残すことは、複雑多岐な社会事象を処理するための慎重な態度というべきであろう。この範囲において、私は、右大法廷判決の説くところに同意することができる。そして、私は、右の説示の趣旨に沿って政教分離規定を解釈すれば、国家と宗教との完全分離を原則とし、完全分離が不可能であり、かつ、分離に固執すると不合理な結果を招く場合に限って、例外的に国家と宗教とのかかわり合いが憲法上許容されるとすべきものと考えるのである。
このような考え方に立てば、憲法二〇条三項が「いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定しているのも、国が宗教とのかかわり合いを持つ行為は、原則として禁止されるとした上で、ただ実際上国家と宗教との分離が不可能で、分離に固執すると不合理な結果を生ずる場合に限って、例外的に許容されるとするものであると解するのが相当である。したがって、国は、その施策を実施するための行為が宗教とのかかわり合いを持つものであるときには、まず禁じられた活動に当たるとしてこれを避け、宗教性のない代替手段が存しないかどうかを検討すべきである。そして、当該施策を他の手段でも実施することができるならば、国は、宗教的活動に当たると疑われる行為をすべきではない。しかし、宗教とのかかわり合いを持たない方法では、当該施策を実施することができず、これを放棄すると、社会生活上不合理な結果を生ずるときは、更に進んで、当該施策の目的や施策に含まれる法的価値、利益はいかなるものか、この価値はその行為を行うことにより信教の自由に及ぼす影響と比べて優越するものか、その程度はどれほどかなどを考慮しなければならない。施策を実施しない場合に他の重要な価値、特に憲法的価値の侵害が生ずることも、著しい社会的不合理の一場合である。こうした検証を経た上、政教分離原則の除外例として特に許容するに値する高度な法的利益が明白に認められない限り、国は、疑義ある活動に関与すべきではない。このような解釈こそが、憲法が政教分離規定を設けた前述の経緯や趣旨に最もよく合致し、文言にも忠実なものである上、合憲性の判断基準としても明確で疑義の少ないものということができる。そして、右の検討の結果、明確に例外的事情があるものと判断されない限り、その行為は禁止されると解するのが、制度の趣旨に沿うものと考える。
二 多数意見に対する疑問
これに対し、多数意見の示す政教分離規定の解釈は、前述の制定経緯やその趣旨及び文言に忠実とはいえず、また、その判断基準は、極めて多様な諸要素の総合考慮という漠然としたもので、基準としての客観性、明確性に欠けており、相当ではないというほかはなく、私は、これに賛成することができない。その理由は、次のとおりである。
1 多数意見は、憲法が政教の完全分離を理想としているとしつつ、「分離にもおのずから一定の限界がある」という。この判示のみをみれば、宗教的活動のすべてが「許されない」のが原則であるが、分離不能など特別の事情のために「許される」例外的な場合が存するとの趣旨をうかがわせる。ところが、それに続いて、「信教の自由の保障と確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが問題」となるといい、突如「許されない」活動を限定的に定義している。完全分離を理想と考え、国が宗教とかかわり合いを持つことは原則的に許されないという立場から出発するのであれば、何が「許されない」かを問題とするのではなく、何が例外的に「許される」のかをこそ論ずべきである。私は、このような多数意見の立場は、政教分離制度の趣旨、目的にかなわず、同制度が信教の自由を確保する手段として最大限機能するよう要請されていることを忘れたものであって、望ましくないと考える。
2 法解釈の原則は、法文を通常の意味・用法に従って解釈し、それで分明でないときは、立法者の意思を探求することである。「いかなる宗教的活動」をも禁止するとの文言を素直に読めば、宗教とかかわり合いを持つ行為はすべて禁止されていると解釈すべきことは、極めて分明で、「原則禁止、例外許容」の立場を採るのが当然である。にもかかわらず、何ら限定が付されていない文言を「いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが問題」として、性質上の制限があると読むことは、文意を離れるものであり、これを採ることができない。
憲法二〇条三項に影響を与えた米国憲法の類似規定(修正一条)に関し、いわゆる目的効果基準を採る判例が、この規定は一定の目的、効果を持つ行為を禁ずるものであると解釈していることにならって、我が国でも同様な限定を「宗教的活動」に加える考えが生まれたとみられる。しかし、これは、両国憲法の規定の相違を無視するものである。米国憲法は、「国教の樹立を定め、又は宗教の自由な行使を禁止する法律(省略)を制定してはならない。」と規定し、国教樹立や宗教の自由行使の禁止に当たる行為のみが許されないとしているため、右の禁止に当たる範囲を定義する必要が生じ、判例は、許されない行為を決定する立場から基準を定めたのである。これに対し、我が憲法は、端的にすべての宗教的活動を禁止の対象とするとしているのであるから、およそ宗教色を帯びる行為は一義的に禁止した上、特別の場合に許容されるとの基準を設けるのが自然なこととなる。両国の条文の差異をみれば、基準の立て方が異なってこそ、それぞれ素直に条文に適するといえよう。
3 また、多数意見は、憲法二〇条三項の解釈に当たって、用語の意味内容があいまいで、その適用範囲が明確でなく、将来の指標とするには不十分と認められる。
多数意見は、「宗教的活動」とは、「国及びその機関の活動」で宗教とのかかわり合いを持つ「すべての行為」を指すものではなく、「かかわり合いをもたらす行為」の目的効果にかんがみ、そのかかわり合いが諸条件に照らし「相当とされる限度を超えるもの」のみをいい、この相当限度を超えるのは「当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助……等になるような行為」であるという。この定義において、「当該行為」は、「国及びその機関」(以下「国」という。)の活動で宗教との「かかわり合いをもたらす行為」(以下「関与行為」という。)を意味している。
国と宗教とのかかわり合いをみる場合、右のように国の「かかわり合いをもたらす」国自体の関与行為とかかわり合いの対象となる宗教的とみられる行為(以下「対象行為」という。)が存在し、その両者の関係がいかなるものか検討されることとなる。なお、この両者は、国教樹立のように大きく重なることもあれば、津地鎮祭のように重なる部分が減少し、本件玉串料奉納のように重なりが更に小さくなることもあり得る。また、津地鎮祭の場合、市がその主催者となっているとはいえ、宗教行事そのものは、神職が主宰者となり独自の宗教儀式として実施されており、市はこの他者の宗教行事と参加・利用の関係に立ったのであって、ここでも関与行為と対象行為の区別は明らかである。
続いて多数意見は、「ある行為」が禁止される宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、「当該行為」の外形的側面のみにとらわれることなく、「当該行為の行われる場所」その他の要素も考慮せよという。この場合、「ある行為」や「当該行為」は、先行定義によれば、国の活動を意味する。ところが、多数意見引用の昭和五二年七月一三日大法廷判決は、「当該行為」の外形的側面の例示として、主宰者が宗教家か、式次第が宗教の定める方式にのっとったものかなど、を挙げており、右大法廷判決が「当該行為」なる用語を国の関与行為とは別異の、宗教行事など国がかかわり合いを持とうとする対象行為を指すものとして使用していることを推知させる。しかし、この判示を定義どおり国の関与行為の外形と解する者もあろうし、特にこの例示を欠く多数意見は、その可能性を高めている。
さらに、後続部分における「当該行為」も、多義的で意味を特定し難い。多数意見が「当該行為の行われる場所」というとき、愛媛県による玉串料などの支出が問題になっているので、県のかかわり合いをもたらす出捐行為の場所と考えることもできるが、直前の「当該行為」が祭式を指すのと同様、例大祭の場所とみる方が自然である。「当該行為に対する一般人の宗教的評価」も同様で、玉串料奉納行為など関与行為に対するものか、例大祭など対象行為に対するものか、両者を含めてか、人々を迷わせる。「当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識」という場合、検討するのは関与行為(者)、対象行為(者)のいずれについてか、その双方か、やはり不分明である。津地鎮祭の場合、まず、一般人の意識においては、地鎮祭には宗教的意義を認めず、世俗的行為、慣習化した社会的儀礼として、世俗的な行事と評価しているとした上で、津市長らも同一の意識を持っていたと説示した点をみれば、対象行為を主眼としているとみられる一方、本件の原判決においては、県の行為は、戦没者の慰霊が目的であったこと、遺族援護行政の一環としてされたこと、金額が小さく儀礼的とみられることが論じられているところからすれば、県の関与行為を中心に「当該行為」や「当該行為者」が理解されていたとみられる。つまり、「当該行為」、「当該行為者」という同一用語を、前記大法廷判決は対象行為について、本件原判決は関与行為について、それぞれ使用しており、この用語が必ずしも一義的には解し得ないことを示している。「当該行為の一般人に与える効果、影響」というときも、国の行為のみについて論じているのか、例大祭なども考慮の対象としているのか明らかでなく、ことの性質上、後者が除かれているとは思えない。要するに、多数意見は、その意味内容を特定し難い部分があり、真意を把握するのが困難で、その適用に際し、判断を誤らせる危険があり、合憲性を左右する基準として、このような不明確さは許されるべきでない。
4 そして、私の主張する前記一の立場によれば、国の行為のうち、一応宗教的と認められるものは、すべて回避され、特に例外とすべき事由が明確に示されて初めて許容されることとなるため、検討すべき行為の量も検討すべき事項も、選別され、限定される。要するに、基準の客観的定立と適用がより容易になるといい得る。
これに対し、多数意見の立場は、「宗教的活動」が本来的に限定された意味、内容を持つことを出発点とする。そこでは、すべての宗教的活動は、例示されたような多様な考慮要素に照らし総合評価して初めて、許されない宗教的活動の範囲に属することが決定される。検討対象の量も多く、検討事項も広範に及び、特に総合評価という漠然たる判断基準に頼らざるを得ず、客観性、明確性の点で大きな不安を感じさせる。判断基準という以上、単に考慮要素を列挙するだけでは足りず、各要素の評価の仕方や軽重についても何らかの基準を示さなければ、尺度として意味をなさない。事実、これまでの裁判例において、同一の目的効果基準にのっとって同一の行為を評価しながら、反対の結論に達している例があることは、右基準が明確性を欠き、その適用が困難なことを示すものというべきである。
私は、右基準に代え、前記一に述べたところに従って新たな基準を用いることにより、将来の混乱を防止すべきものと考える。
三 結論
1 そこで、本件を前記一において述べた基準に従って見てみると、まず、県が戦没者を慰霊するという意図を実現するために、靖國神社等の祭祀に当たって玉串料等を奉納する以外には、宗教とかかわり合いを持たないでこれを行う方法はなかったのかどうかを検討しなければならない。しかし、そのような主張、立証はないのみならず、反対に、多くの宗教色のない慰霊のみちがあることは、公知の事実である。したがって、本件の県の行為は、宗教との分離が実際上不可能な場合には当たらないというほかはない。また、当然のことながら、宗教とのかかわり合いを持たないでも県の右意図は実現することができる以上、本件の県の行為がなければ社会生活上不合理な結果を招来するということはできず、この面からも、政教分離原則に反しない例外的事情があるということはできない。実際に他の都道府県の知事らが本件のような玉串料等の奉納をしなくても、特段の不合理を生じているとは認められず、この種の社会的儀礼を尊重するあまり、憲法上の重要な価値をおろそかにするのは、ことの順逆を誤っている。したがって、本件の玉串料等の奉納は、憲法二〇条三項に違反するものであり、本件支出は違法というべきである。
2 これに対し、本件の玉串料等の奉納は、その金額も回数も少なく、特定宗教の援助等に当たるとして問題とするほどのものではないと主張されており、これに加えて、今日の社会情勢では、昭和初期と異なり、もはや国家神道の復活など期待する者もなく、その点に関する不安はき憂に等しいともいわれる。
しかし、我々が自らの歴史を振り返れば、そのように考えることの危険がいかに大きいかを示す実例を容易に見ることができる。人々は、大正末期、最も拡大された自由を享受する日々を過ごしていたが、その情勢は、わずか数年にして国家の意図するままに一変し、信教の自由はもちろん、思想の自由、言論、出版の自由もことごとく制限、禁圧されて、有名無実となったのみか、生命身体の自由をも奪われたのである。「今日の滴る細流がたちまち荒れ狂う激流となる」との警句を身をもって体験したのは、最近のことである。情勢の急変には一〇年を要しなかったことを想起すれば、今日この種の問題を些細なこととして放置すべきでなく、回数や金額の多少を問わず、常に発生の初期においてこれを制止し、事態の拡大を防止すべきものと信ずる。
右に類する主張として、我が国における宗教の雑居性、重層性を挙げ、国民は他者の宗教的感情に寛大であるから、本件程度の問題は寛容に受け入れられており、違憲などといってとがめ立てする必要がないとするものもある。しかし、宗教の雑居性などのために、国民は、宗教につき寛容であるだけでなく、無関心であることが多く、他者が宗教的に違和感を持つことに理解を示さず、その宗教的感情を傷付け、軽視する弊害もある。信教の自由は、本来、少数者のそれを保障するところに意義があるのであるから、多数者が無関心であることを理由に、反発を感ずる少数者を無視して、特定宗教への傾斜を示す行為を放置することを許すべきでない。さらに、初期においては些少で問題にしなくてよいと思われる事態が、既成事実となり、積み上げられ、取り返し不能な状態に達する危険があることは、歴史の教訓でもある。この面からも、現象の大小を問わず、ことの本質に関しては原則を固守することをおろそかにすべきではない。
私は、こうした点を考慮しつつ、憲法がその条文に明示した制度を求めるに至った歴史的背景を想起し、これを当然のこととして、異論なく受容した制定者始め国民の意識に思いを致せば、国は、憲法の定める制度の趣旨、目的を最大限実現するよう行動すべきであって、憲法の解釈も、これを要請し、勧奨するよう、なさるべきものと信じ、本意見を述べるものである。
判示第一についての裁判官三好達の反対意見は、次のとおりである。
私は、本件支出は、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動に該当せず、また、同八九条の禁止する公金の支出にも該当しないし、宗教団体が国から特権を受けることを禁止した同二〇条一項後段にも違反しないと考える。したがって、上告人らの本訴請求は棄却されるべきものであり、これを棄却した原判決は、その結論において維持せらるべく、本件上告は、理由がないものとして、これを棄却すべきものであると考える。以下、その理由を述べる。
一 憲法における政教分離原則と憲法の禁止する宗教的活動及び公金の支出
この点についての私の考えは、多数意見も引用するところの最高裁昭和四六年(行ツ)第六九号同五二年七月一三日大法廷判決・民集三一巻四号五三三頁及び最高裁昭和五七年(オ)第九〇二号同六三年六月一日大法廷判決・民集四二巻五号二七七頁の判示するところと同一であるが、以下、その主要な点を申し述べる。
現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近く、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえって社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れない。これらの点にかんがみると、政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があることを免れず、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないことを前提とした上で、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが、問題とならざるを得ないのである。右のような見地から考えると、憲法の前記政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いを持つことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。
右の政教分離原則の意義に照らすと、憲法二〇条三項にいう宗教的活動とは、およそ国及びその機関の活動で宗教とかかわり合いを持つすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきであり、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するか否かを検討するに当たっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。
そして、本件支出が、宗教上の組織又は団体に対する公金の支出として、憲法八九条によって禁止されるものに当たるか否かの判断も、右の基準によってされるべきものであり、本件支出を評価するに当たっては、我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められるか否かを検討すべきであり、また、その検討に当たっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることがあってはならないのである。
二 靖國神社及び各県などの護國神社(私の反対意見において、護國神社とは、宗教法人愛媛県護國神社のみを指すのではなく、各県などに存在する護國神社一般を指称する。)をめぐる国民の意識等
1 祖国や父母、妻子、同胞等を守るために一命を捧げた戦没者を追悼し、慰霊することは、遺族や戦友に限らず、国民一般としての当然の行為ということができる。このような追悼、慰霊は、祖国や世界の平和を祈念し、また、配偶者や肉親を失った遺族を慰めることでもあり、宗教、宗派あるいは民族、国家を超えた人間自然の普遍的な情感であるからである。そして、国や地方公共団体、あるいはそれを代表する立場に立つ者としても、このような追悼、慰霊を行うことは、国民多数の感情にも合致し、遺族の心情にも沿うものであるのみならず、国家に殉じた戦没者を手厚く、末長く追悼、慰霊することは、国や地方公共団体、あるいはそれを代表する立場にある者としての当然の礼儀であり、道義の上からは義務ともいうべきものである。諸外国の実情をみても、各国の法令上の差異や、国家と宗教とのかかわり方の相違などにかかわらず、国が自ら追悼、慰霊のための行事を行い、あるいは、国を代表する者その他公的立場に立つ者が民間団体の行うこれらの行事に公的資格において参列するなど、戦没者の追悼、慰霊を公的に行う多数の例が存在する。我が国においても、この間の事情は、これら諸外国と同様に考えることができる。そして、前述のように戦没者に対する追悼、慰霊は人間自然の普遍的な情感であることからすれば、追悼、慰霊を行うべきことは、戦没者が国に殉じた当時における国としての政策が、長い歴史からみて、正であった邪であったか、当を得ていたか否かとはかかわりのないことというべきである。
以上のような私の考えは、さきに内閣総理大臣その他の国務大臣の靖國神社参拝の在り方をめぐる問題について検討を遂げた「閣僚の靖國神社参拝問題に関する懇談会」の昭和六〇年八月九日の報告書(以下、「靖國懇報告書」という。)において述べられているところと概ね趣旨を同じくするものである。
そして、一般的にいえば、慰霊の対象である御霊というものは、宗教的意識と全く切り離された存在としては考え難いのであって、ただ留意すべきことは、追悼、慰霊に当たり、特定の宗教とのかかわり合いが相当とされる限度を超えることによって、憲法二〇条三項等に違反してはならないということである。
2 靖國神社は、主として我が国に殉じた戦没者二四六万余を祀る神社であり、各県などにある護國神社は、主として右戦没者のうちその県などに縁故のある人々を祀る神社であって、いずれも宗教的施設にほかならない。そして、折りにふれ靖國神社や護國神社にいわゆるお参りをする遺族や戦友を始め国民の中には、祭神を信仰の対象としてお参りするという者もあるであろうが、より一般的には、そのような宗教的行為をしているという意識よりは、国に殉じた父、息子、兄弟、友人、知人、さらにはもっと広く国に殉じた同胞を偲び、追悼し、慰霊するという意識が強く、これをもっと素朴にいえば、戦没者を慰めるために、会いに行くという気持が強いといえる。
そうであってみれば、靖國神社や護國神社は、正に神道の宗教的施設であり、右各神社の側としては、お参りする者はすべて祭神を信仰の対象とする宗教的意識に基づき宗教的行為をしている者と受け取っているであろうことはいうまでもないところであるが、右に述べたような多くの国民の意識からすれば、右各神社は、戦没者を偲び、追悼し、慰霊する特別の施設、追悼、慰霊の中心的施設となっているといえるのであって、国民の多くからは、特定の宗教にかかる施設というよりも、特定の宗教を超えての、国に殉じた人々の御霊を象徴する施設として、あたかも御霊を象徴する標柱、碑、名牌などのように受け取られているといってもよいものと思われる。
靖國懇報告書も、国民や遺族の多くは、戦後から今日に至るまで、靖國神社を、その沿革や規模からみて、依然として我が国における戦没者追悼の中心的施設であるとしている旨を指摘しているところである。
これに加えて、現実の問題として、戦没者を追悼、慰霊しようとする場合、我が国に殉じた戦没者すべての御霊を象徴するものは、靖國神社以外に存在しないし、右戦没者のうちその県などに縁故のある人々すべての御霊を象徴するものは、その県などの護國神社をおいてほかに存在しないといってよい。千鳥ヶ淵戦没者墓苑もあり、右墓苑における追悼、慰霊も怠ってはならないが、何といっても、右墓苑は、先の大戦での戦没者の遺骨のうち、氏名が判明せず、また、その遺族が不明なことから、遺族に渡すことのできない遺骨を奉安した墓苑であって、日清戦争や日露戦争での戦没者を始めとし、我が国のために殉じたすべての戦没者の御霊にかかる施設ではない。また、識者の中には、追悼、慰霊のための宗教、宗派にかかわりのない公的施設を新たに設置することを提案する意見もあり、考慮に値する意見ではあるが、国民感情や遺族の心境は、必ずしも合理的に割り切れるものではなく、このような施設が設置されたからといって、これまで靖國神社や護國神社を追悼、慰霊の中心的施設としてきている国民感情や遺族の心境に直ちに大きな変化をもたらすものとは考え難い。
3 国民の中に、靖國神社や護國神社において、国や地方公共団体などを代表する立場にある者によって戦没者の追悼、慰霊の途が講ぜられることを望む声が多く、また、いわゆる公式参拝決議をした県議会や市町村議会も多いが、それらは、このように多くの国民の意識として右各神社が戦没者の追悼、慰霊の中心的施設として意識されていることによるものである。これらのことなどから、まだ占領下であった昭和二六年一〇月一八日、戦後はじめての靖國神社の秋季例大祭に内閣総理大臣、その他の国務大臣らによる参拝が行われて以来、靖國神社の春季、秋季の例大祭や終戦記念日に同神社に参拝した内閣総理大臣その他の国務大臣は多く(一定の時期までは、内閣総理大臣のうち参拝しなかった者は、むしろ例外である。)、それらのうちには、いわゆる公式参拝であることを言明した者がかなりの数に上っているし、参拝した内閣総理大臣の中には、クリスチャンである者も含まれているとされている。靖國懇報告書も、「政府は、この際、大方の国民感情や遺族の心情をくみ、政教文理原則に関する憲法の規定の趣旨に反することなく、また、国民の多数により支持され、受け入れられる何らかの形で、内閣総理大臣その他の国務大臣の靖國神社への公式参拝を実施する方途を検討すべきである」と提言しているところである。
4 本件支出を評価するに当たっての社会的・文化的諸条件として、以上述べたような靖國神社や護國神社に対する多くの国民の意識等を十分に考慮しなければならない。
三 本件支出にかかる事実関係とその検討
1 靖國神社に対する供与
靖國神社に対する供与は、昭和五六年から同六一年までの間、春秋の例大祭に際し、玉串料名下に一回五〇〇〇円ずつ九回、七月のみたま祭に際し、献灯料名下に一回七〇〇〇円ないし八〇〇〇円ずつ四回供与したもので、その供与は合計七万六〇〇〇円である。
右各供与は、恒例の宗教上の祭祀である春秋の例大祭及びみたま祭に際してされたものであり、しかも昭和三三年ころから毎年継続して行われてきたというのであるが、次の諸点が留意されなければならない。
(一) 金員の供与が靖國神社の恒例の祭祀に際してされたことが問題とされている。しかしながら、現在の靖國神社の春秋の例大祭の日は、戦後の政教分離政策の実施とともに、それぞれ春分の日及び秋分の日を基に新旧暦で換算して定めたものであり、春分の日及び秋分の日は、国民生活において、彼岸の中日として、祖先など死没者の墓参りが行われる日である。また、みたま祭は、古来我が国で祖先などの霊を祀り、慰め、供養する日とされてきたお盆(もともと民間習俗であって、仏教に由来するものではないとされている。)の日にちなんで、戦後設定したものであり、お盆に帰ってくる祖先などの霊を迎えるため提灯を掲げる習俗に合わせ、靖國神社の境内にも、献灯料によって二万を超える提灯が掲げられるのである。すなわち、いずれも特に祭神に直接かかわりのある日をトして定められたものではなく、我が国において多数を占める国民が日常生活の上で祖先などの追悼、慰霊の日としてきた日にちなんで定められた日であって、特定の宗教への信仰を離れても、戦没者の追悼、慰霊をするにふさわしい日といえる。
春秋の例大祭及びみたま祭は、靖國神社の立場からすれば、いわゆる恒例祭として、重要な宗教的意義を持ち、外形的にも主要な宗教的儀式にほかならないけれども、二に述べたように、多くの国民は、靖國神社を戦没者の追悼、慰霊の中心的施設と意識しているのであって、祖先などの追悼、慰霊の日にちなんだ日に行われる例大祭やみたま祭については、多くの国民や遺族は、戦没者を偲び、追悼し、慰霊する行事との意識が強く、祭神を信仰の対象としての宗教的儀式という意識は、必ずしも一般的ではないといえる。憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動及び同八九条の禁止する公金の支出に当たるかどうかの判断は、多くの国民の側の意識を考慮してされるべきであって、靖國神社の立場に立ってされるべきではない。このことは宗教的儀式の二面性ともいうべきであって、世俗的行事とされている地鎮祭のような宗教的儀式についてもいえる。すなわち、地鎮祭も、これを主宰している神職の立場からすれば、降神の儀により大地主神及び産土神をその場所に招いて行う厳粛な神儀であり、外形的にも宗教的儀式にほかならないが、ただ建築主その他の参列者を含む国民一般は、世俗的行事と意識しているということなのである。
(二) 右各金員の供与は、いずれも靖國神社からの案内に基づき、あらかじめ愛媛県知事である被上告人白石から委任を受けていた愛媛県東京事務所長である被上告人中川が通常の封筒に金員を入れて同神社の社務所に持参し、玉串料又は献灯料として持参した旨を口頭で告げて、同神社に交付したというのである。この供与の機会あるいは例大祭やみたま祭の機会に、県知事自らが参拝した事実はないのみならず、東京事務所長その他の県職員が代理して参拝した事実もなく、通常の封筒に入れて玉串料又は献灯料と記載することもなく交付しているのであって、供与の態様は極めて事務的といえる。
例大祭に際しては、交付に当たり「玉串料」と告げているが、玉串料とは、神式による儀式に関連して金員を供与するに当たっての一つの名目でもあり、葬儀が神式で行われる場合、香典の表書を「御玉串料」とする例も多いことは、周知のところであるし、例大祭において、県関係者による現実の玉串奉奠がされたこともない。それ故、玉串料という名目に、必ずしも供与する側の宗教的意図、目的を見い出すことはできず、また、必ずしも国民一般がこれを宗教的意義ある供与として意識するともいえないと思われる。ちなみに、前出最高裁昭和五二年七月一三日大法廷判決が世俗的行事であって憲法二〇条三項にいう宗教的活動に当たらないと判示した津市体育館の地鎮祭においては、神事として、津市長、同市議会議長らによって、現実に玉串奉奠が行われているし、最高裁昭和六二年(行ツ)第一四八号平成五年二月一六日第三小法廷判決・民集四七巻三号一六八七頁がそれへの参列は宗教的活動に当たらないとした忠魂碑前での神式による慰霊祭の神事においても、市長ら参列者により現実の玉串奉奠が行われているのである。
みたま祭に際しては、交付に当たり「献灯料」と告げているが、境内に提灯が掲げられるのは、お盆に祖先を迎えるため提灯を掲げる我が国の習俗に由来すること、多くの国民は靖國神社を戦没者の追悼、慰霊の中心的施設と意識していること前述のとおりであることからすれば、多くの国民は、みたま祭の献灯を靖國神社の祭神にかかる宗教的儀式と結び付ける意識は薄く、戦没者の追悼、慰霊のためとの意識が強いということができる。そのための献灯料の供与に、必ずしも供与する側の宗教的意図、目的を見い出すことはできず、また、必ずしも国民一般がこれを宗教的意義ある供与として意識するともいえないと思われる。
(三) 供与にかかる金員の額は、一般に冠婚葬祭などに際し、都道府県ないしその知事の名義で社会的儀礼として供与する金員として最低限度の額といえるものであることは明らかであるし、愛媛県の規模、予算その他からしても、逆に靖國神社のそれらからしても、極めて微少であって、金額からみれば、宗教とのかかわり合いは最低限度のものといってよい。金員の供与が毎年の例大祭ないしみたま祭に際し継続的にされていることから、単に社会的儀礼の範囲にとどまるものとは評価し難いとする向きもあるが、右のように、例大祭やみたま祭に際しての金員の供与が、追悼、慰霊としての社会的儀礼の範囲内といえる程度のものであるならば、それが春秋ないし毎年の追悼、慰霊の機会に継続的にされたことは、あたかも死没者に対する毎年の命日ごとの追悼、慰霊のように、手厚い儀礼上の配慮がされたというべきものであって、継続的にされたことから、社会的儀礼の範囲を超えるものと評価することは当たらない。
ちなみに、靖國懇報告書をふまえて、昭和六〇年の終戦記念日に内閣総理大臣が靖國神社の本殿に昇殿して、公式に参拝をしたが、その際「内閣総理大臣何某」の名入りの花一対を本殿に供えた。その代金として公金から支出され靖國神社に交付された金員の額は、三万円であり、一国を代表する者としての戦没者の追悼、慰霊のための支出として、当然社会的儀礼の範囲内といえる額であるが、これとの対比においても、右各供与が社会的儀礼の範囲を超えるものでないことは明らかである。
なお、判例をみると、地方公共団体が行う接待等については、一回の機会にかなりの金額を支出している場合にも、社会通念上儀礼の範囲を逸脱したものとまでは断じ難いとしており、奈良県の某町が、地元出身の大臣の祝賀式典の挙行等のために、三三六万余円の公金(同町の当時の歳出予算額の0.16パーセントを占める金額)を支出した事案で、「社交儀礼の範囲を逸脱しているとまでは断定することができず」と判示した(最高裁昭和六一年(行ツ)第一二一号平成元年七年四日第三小法廷判決・判例時報一三五六号七八頁)のは、その例である。戦没者の追悼、慰霊のための宗教とのかかわり合いが相当とされる限度を超えるかどうかが問題とされる場合のみ、微少な金額の支出についても、厳しく糾弾するのは、バランスを欠くとの感を否めない。
2 宗教法人愛媛県護國神社(以下、私の反対意見において、「愛媛県護國神社」という。)に対する供与
愛媛県護國神社に対する供与は、昭和五六年から同六一年までの間、春秋の慰霊大祭に際し、供物料名下に一回一万円ずつ九回供与したもので、その供与は合計九万円である。
右各供与は、恒例の宗教上の祭祀である春秋の慰霊大祭に際してされたものであり、しかも、昭和三三年ころから毎年継続して行われていたというのであるが、次の諸点が留意されなければならない。
(一) 金員の供与は春秋の慰霊大祭の際にされており、愛媛県護國神社の恒例の大祭に際して供与されたことが問題とされる。しかしながら、春秋の大祭は、愛媛県護國神社の立場からすれば、重要な宗教的意義を持ち、外形的にも主要な宗教的儀式にほかならないけれども、二に述べたように、多くの国民は、護國神社を戦没者の追悼、慰霊の中心的施設と意識しているのであって、慰霊大祭の名の下に行われるこの行事については、(二)に後述するようにこの行事に深く関与している財団法人愛媛県遺族会(以下、私の反対意見において、「愛媛県遺族会」という。)を始めとし、多くの国民や遺族は、慰霊大祭の名に示されるとおり、正に戦没者を偲び、追悼し、慰霊する行事との意識が強く、祭神を信仰の対象としての宗教的儀式という意識は、必ずしも一般的ではないといえる。このことは、靖國神社の例大祭及びみたま祭について述べたと同じく、宗教的儀式の二面性として把握されるべきものであって、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動及び同八九条の禁止する公金の支出に当たるかどうかの判断は、多くの国民の側の意識を考慮してされるべきものであって、愛媛県護國神社の立場に立ってされるべきではない。
(二) 右各金員の供与は、以下のようにしてされた。すなわち、まず愛媛県遺族会ないし同会長の名義による愛媛県知事あての慰霊大祭の案内状が届き、愛媛県では、慰霊大祭の供物料として一万円を支出する手続をとり、「供物料、愛媛県」と表書したのし袋に入れ、通常は老人福祉課遺族援護係長が愛媛県遺族会の事務所に持参し、これを受領した同会は、慰霊大祭の日に、右一万円を「供物料、財団法人愛媛県遺族会会長白石春樹」と表書したのし袋に入れ替えて、愛媛県護國神社に交付した、というのである。
このように、愛媛県からの金員供与は、直接的には、愛媛県遺族会に対してされ、同会において、同会会長名を表書した別ののし袋に入れ替えて、愛媛県護國神社に交付しているのであるから、愛媛県から愛媛県護國神社に対する金員の供与というべきであるかは著しく疑問で、むしろ、供物料を奉納するのは愛媛県遺族会であって、愛媛県は、遺族援護業務として、愛媛県遺族会に対し供物料を供与したものといえるのである。愛媛県遺族会が宗教上の組織又は団体に当たらないことはいうまでもない。仮に愛媛県から愛媛県護國神社への供与とみることができるとしても、その供与は間接的というほかはない。
表書は「供物料」となっているが、供物料とは、神式に限らず、神式又は仏式による儀式に関連して金員を供与するに当たっての一つの名目でもあり、葬儀が神式で行われる場合、香典の表書を「神饌料」(「神饌」とは、神に供する酒食の意である。)とする例もあることは、周知のところである。それ故、供物料という名目に、必ずしも供与する側の宗教的意図、目的を見い出すことはできず、また、必ずしも国民一般がこれを宗教的意義ある供与として意識するともいえないと思われる。
(三) 供与にかかる金員の額は、一般に冠婚葬祭などに際し、都道府県ないしその知事の名義で社会的儀礼として供与する金員として最低限度の額といえるものであることは明らかであり、愛媛県の規模、予算その他からしても、極めて微少であって、金額からみれば、宗教とのかかわり合いは最低限度のものといってよいことなどは、靖國神社に対する供与について述べたのと同様である。金員の供与が毎年春秋の慰霊大祭に際し継続的にされていることから、単に社会的儀礼の範囲にとどまるものとは評価し難いとする向きもあるが、靖國神社に対する供与について述べたのと同様に、金員の供与が追悼、慰霊としての社会的儀礼の範囲内といえる程度のものであるならば、それが継続されたことは、手厚い儀礼上の配慮がされたと評価すべきものであって、継続的にされたことから、社会的儀礼の範囲を超えるものと評価することはできない。
四 本件支出の評価
戦没者に対する追悼、慰霊は、国民一般として、当然の行為であり、また、国や地方公共団体、あるいはそれを代表する立場にある者としても、当然の礼儀であり、道義上からは義務ともいえるものであること、また、靖國神社や護國神社は、多くの国民から、日清戦争、日露戦争以来の我が国の戦没者の追悼、慰霊の中心的施設であり、戦没者の御霊のすべてを象徴する施設として意識されており、現実の問題として、そのような施設は、靖國神社や護國神社をおいてはほかに存在しないことは、二に述べたとおりである。また、本件支出にかかる靖國神社及び愛媛県護國神社への供与は、右各神社の側からすれば、重要な宗教的意義を持ち外形的にも主要な宗教的儀式である恒例祭に際してされたものであるけれども、多くの国民や遺族にとっては、戦没者を偲び、追悼し、慰霊する行事に際してのことであること、靖國神社への供与は、その交付の態様は極めて事務的であること、愛媛県護國神社への供与とされている供与は、遺族援護業務としての愛媛県遺族会への供与ということができ、愛媛県護國神社への供与と断ずべきものか著しく疑問であるのみならず、仮にそのような供与とみることができるとしても、その供与は間接的であること、玉串料又は献灯料と告げ、あるいは供物料と表書したことに、必ずしも供与する側の宗教的意図、目的を見い出すことはできず、また、必ずしも国民一般がこれを宗教的意義ある供与として意識するともいえないと思われること、供与の額は、一般に冠婚葬祭などに際し、都道府県やその知事の名義では社会的儀礼として供与される金員として最低限度の額といえるものであり、金額からみれば、宗教とのかかわり合いは最低限度のものといってよいこと、供与が毎年継続的にされたことから、社会的儀礼の範囲を超えるものと評価することはできないことなどは、三に述べたとおりである。
以上に加えて、我が国においては、家に神棚と仏壇が併存し、その双方にお参りをし、さらに、家の中にはそれ以外の神仏の守り札も掲げられているといった家庭が多く、場合によっては、その子女はミッション系の学園で学んでいるといったこともみられる。また、前出最高裁平成五年二月一六日第三小法廷判決の事案にみられるように、同一の遺族会主催の下に毎年一回行われる同一の忠魂碑の前での慰霊祭が、神式、仏式隔年交替で行われている事例もある。すなわち、我が国においては、多くの国民の宗教意識にも、その日常生活にも、異なる宗教が併存し、その併存は、調和し、違和感のないものとして、肯定されているのであって、我が国の社会においては、一般に、特定の宗教に対するこだわりの意識は希薄であり、他に対してむしろ寛容であるといってよい。このような社会の在り方は、別段批判せらるべきものではなく、一つの評価してよい在り方であり、少なくとも「宗教的意識の雑居性」というような「さげすみ」ともとれる言葉で呼ばれるべきものではない。このような社会的事情も考慮に入れられなければならず、特定の宗教のみに深い信仰を持つ人々にも、本件のような問題につきある程度の寛容さが求められるところである。
これら諸般の事情を総合すれば、本件支出は、いずれも遺族援護業務の一環としてされたものであって、支出の意図、目的は、戦没者を追悼し、慰霊し、遺族を慰めることにあったとみるべきであり、多くの国民もそのようなものとして受け止めているということができ、国民一般に与える効果、影響等としても、戦没者を追悼、慰霊し、我が国や世界の平和を祈求し、遺族を慰める気持を援助、助長、促進するという積極に評価されるべき効果、影響等はあるけれども、特定の宗教を援助、助長、促進し、又は他の宗教に対する圧迫、干渉等となる効果、影響等があるとは到底いうことができず、これによってもたらされる愛媛県と靖國神社又は愛媛県護國神社とのかかわり合いは、我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるとはいえない。本件支出は、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動に該当せず、同八九条の禁止する公金の支出にも該当せず、また、同二〇条一項後段にも違反しないというべきである。
五 付言
1 本件支出をもって違憲ということができないことは、以上に詳述したとおりであるが、心の問題としては、わだかまるものがないではない。二に述べたとおり、公人が公人の立場で、過度に特定の宗教とかかわることのない限度で、戦没者の追悼、慰霊に尽くすことは、当然の礼儀であり、道義上は義務ともいえるのであるが、追悼、慰霊が特定の宗教とかかわりを持って行われる場合の支出は、そのかかわり合いが相当とされる限度を超えないものに限られるのであるから、当然本件支出の金額程度にとどまる。そうだとすれば、心の問題としては、その程度の金員は、これを自己において支弁することに、より共感を覚える。けだし、自己において支弁する方がより心のこもった供与となり、追悼、慰霊の趣旨に一層かなうからである。しかし、このことは、本件支出が違憲かどうかにはかかわりがない。本件では、心の問題としての本件支出の相当性が問われているのではない。上述のような判断となった次第である。
2 靖國神社や護國神社と国や地方公共団体とのかかわりに関して、世上、国家神道及び軍国主義の復活を懸念する声がある。戦前の一時期及び戦時中において、事実上神社に対する礼拝が強制されたことがあり、右危惧を抱く気持は理解し得ないではない。しかしながら、昭和二〇年一二月一五日の連合国最高司令官からのいわゆる神道指令により、神社神道は一宗教として他のすべての宗教と全く同一の法的基礎に立つものとされると同時に、神道を含む一切の宗教を国家から分離するための具体的措置が明示され、さらに、昭和二二年五月三日には政教分離規定を設けた憲法が施行された。戦後現在に至る靖國神社や護國神社は、他の宗教法人と同じ地位にある宗教法人であって、戦前とはその性格を異にしている。また、政教分離規定を設けた憲法の下では、国家神道の復活はあり得ないし、平和主義をその基本原理の一つとする憲法は、軍国主義の十分な歯止めとなっている。靖國神社の社憲二条にも、神社の目的として、「……万世にゆるぎなき太平の基を開き、以て安国の実現に寄与するを以て根幹の目的とする。」と定められているところである。靖國神社や護國神社と国や地方公共団体との本件程度のかかわり合いにつき、そのような危惧を抱くのは、短絡的との感を免れず、日本国民の良識を疑っているものといわざるを得ない。戦後長い間に培われた日本国民の良識をもっと信頼すべきであろう。
3 世上、靖國神社に一四人のA級戦犯も合祀されていることを指摘する向きもある。今ここに、東京裁判について論述することは、本件訴訟の争点と関係がないので、差し控えるが、A級戦犯が合祀されていることは、二四六万余にのぼる多くの戦没者につき、追悼、慰霊がされるべきであることとかかわりのないことであるし、まして本件支出が特定の宗教との相当とされる限度を超えるかかわり合いに当たるかどうかとは無関係の事柄である。靖國懇報告書にも、「合祀者の決定は、現在、靖國神社の自由になし得るところであり、また、合祀者の決定に仮に問題があるとしても、国家、社会、国民のために尊い生命を捧げた多くの人々をおろそかにして良いことにはならないであろう。」と指摘されているので、これを引用する。
4 なお、本件のような問題は、本質的には、国内問題であることはいうまでもないが、右2及び3については、常に関係諸外国の理解を得るための努力も続けられなければならないところである。
判示第一についての裁判官可部恒雄の反対意見は、次のとおりである。
一 本件第一審判決(松山地裁平成元年三月一七日判決)は、いわゆる津地鎮祭大法廷判決(最高裁昭和五二年七月一三日大法廷判決)を先例として掲げて被上告人白石春樹(元愛媛県知事)の行為を違憲とし、その控訴審である原審判決(高松高裁平成四年五月一二日判決)は、同じく右大法廷判決に従って元知事の行為を合憲とし、当審大法廷の多数意見は、同じく右大法廷判決を先例として引いて元知事の行為を違憲であるとする。私は、津地鎮祭大法廷判決の定立した基準に従い、その列挙した四つの考慮要素を勘案すれば、自然に合憲の結論に導かれるものと考えるので、多数意見の説示するところと対比しながら、以下に順次所見を述べることとしたい。
二 本件は、被上告人白石が愛媛県知事として在任中の昭和五六年から同六一年にかけて靖國神社の春秋の例大祭に際して奉納された玉串料各五千円、みたま祭に際して奉納された献灯料各七千円又は八千円、愛媛県護國神社の春秋の慰霊大祭に際し県遺族会を通じて奉納された供物料各一万円の公金からの支出が憲法二〇条三項、八九条に違反するや否やが争われた事件であるが、多数意見は、本件支出の適否を判断するにあたり、「政教分離原則と憲法二〇条三項、八九条により禁止される国家等の行為」との標題を掲げて、次のように説示した。
1 まず、政教分離規定がいわゆる制度的保障の規定であること、現実の国家制度として国家と宗教との完全な分離を実現することは実際上不可能に近いこと、政教分離原則を完全に貫こうとすればかえって社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを挙げて、
2 国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があり、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないことを前提とした上で、制度の根本目的(信教の自由の保障の確保)との関係において、そのかかわり合いの許否の限度を論ずべきであるとし、
3 このような見地から考えると、政教分離原則は、国家の宗教的中立性を要求するものではあるが、国家と宗教とのかかわり合いを全く許さないものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的・効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものである、と結論づけた。
三 右にいう「我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするもの」というのは、表現それ自体としては、いわば、適法とされる限度を超える場合には違法となるとするの類いで、もとよりその内容において一義的でなく、それ自体としては、当該行為の合違憲性の判断基準として明確性を欠くとの非難を免れないが、多数意見は、以上に続いて次のように述べている。
「憲法二〇条三項にいう宗教的活動とは、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いを持つすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである」と。いわゆる目的・効果基準であり、さきにみた「相当とされる限度を超えるもの」というおよそ一義性に欠ける説示の内容が合違憲性の判断基準として機能することが可能となるための指標が与えられたものと評することができよう。
しかしながら、具体的な憲法訴訟として提起される社会的紛争につき右の基準を適用して妥当な結論に到達するためには、更により具体的な考慮要素が示されなければならない。多数意見は、この点につき、①当該行為の行われる場所、②当該行為に対する一般人の宗教的評価、③当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、④当該行為の一般人に与える効果、影響の四つの考慮要素を挙げ、ある行為が憲法二〇条三項にいう「宗教的活動」に該当するかどうかを検討するにあたっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、右の①ないし④の考慮要素等諸般の事情を考慮し、社会通念に従って客観的に判断しなければならない旨を判示した。
以上、多数意見の説示するところが津地鎮祭大法廷判決の判旨に倣ったものであることは、その判文に照らして明らかである。そこで、以下に津地鎮祭大法廷判決の事案及びその判旨と対比しつつ、多数意見に賛同し得ない理由を述べることとする。
四 津地鎮祭大法廷判決が判例法理として定立した目的・効果基準とは、(1)当該行為の目的が宗教的意義を持つものであること、及び(2)その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為であること、の二要件を充足する場合に、それが憲法二〇条三項にいう「宗教的活動」として違憲となる(その一つでも欠けるときは違憲とならない)とするもので、この点、合衆国判例にいうレモン・テストにおいて、a目的が世俗的なものといえるか、b主要な効果が宗教を援助するものでないといえるか、c国家と宗教との間に過度のかかわり合いがないといえるか、の一つでも充足しないときは違憲とされることとの違いがまず指摘されるべきであろう。
本件において県のしたさきの支出行為が目的(宗教的意義を持つか)効果(宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等となるか)基準の二要件を充足するか否かを、四つの考慮要素を勘案し、社会通念に従って客観的に判断するためには、まず、津地鎮祭大法廷判決の事案を眺め、それと本件玉串料等支出の事案との異同を識別しなければならない。
津地鎮祭大法廷判決の事案は、次のようなものである。津市体育館の建設にあたり、その建設現場において、津市の主催による起工式[地鎮祭]が、市職員が進行係となって、神職四名の主宰のもとに、所定の服装で、神社神道固有の祭祀儀式に則り、一定の祭場を設け、一定の祭具を使用して行われ、これを主宰した神職自身、宗教的信仰心に基づいて式を執行したものと考えられるが、その挙式費用(神職に対する報償及び供物料)を市の公金から支出したことの適否が争われたというものである。
そして、右大法廷判決は、ある行為が憲法二〇条三項にいう「宗教的活動」に該当するかどうかを検討するにあたっては、「当該行為の主宰者が宗教家であるかどうか、その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に則ったものであるかどうかなど」当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、前述の四つの考慮要素等諸般の事情を考慮し、社会通念に従って客観的に判断しなければならない、としたのである。
津市長個人を被告とする住民訴訟の形式で争われたのは、地鎮祭の挙式費用としての公金支出の適否であるが、津地鎮祭大法廷判決が憲法二〇条三項にいう「宗教的活動」に該当するか否かを論じたのは、いうまでもなく、津市の主催した地鎮祭(その主宰者は専門の宗教家である神職で、神社神道固有の祭祀儀式に則って行われたもの)そのものについてである。同判決は、地鎮祭の主宰者が宗教家であるかどうか、その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に則ったものであるかどうかなど、地鎮祭の外形的側面のみにとらわれることなく、①地鎮祭の行われる場所、②地鎮祭に対する一般人の宗教的評価、③地鎮祭主催者である市が地鎮祭を行うについての意図・目的、宗教的意識の有無・程度、④地鎮祭の一般人に与える効果・影響等、四つの考慮要素を勘案し、社会通念に従って客観的に判断すべきであるとした。
以下に、津地鎮祭大法廷事件との対比において、本件において、“当該行為”が憲法二〇条三項にいう「宗教的活動」に該当するか否かを決するにあたり、検討されるべき考慮要素とは何か、についてみることとする。
五 本件において、多数意見が憲法適合性の論議の対象として取り上げるのは、前述のように、靖國神社の春秋の例大祭に際して奉納された玉串料、みたま祭に際して奉納された献灯料、県護國神社の春秋の慰霊大祭に際して県遺族会を通じて奉納された供物料、の公金からの支出行為自体であって、それ以外にない。
さきの津地鎮祭大法廷事件において憲法適合性が論ぜられたのは津市の主催する地鎮祭であるが、本件において多数意見の言及する右の例大祭、みたま祭、慰霊大祭の主催者は、靖國神社や県護國神社であって、もとより県ではない(慰霊大祭についてはその主催者が県護國神社であるか遺族会であるかの争いがあるが、その実態からみて両者の共催であるとしても、主催者が県でないことに変わりはない)。
靖國神社についていえば、被上告人白石の委任に基づき県東京事務所長の決するところにより、同事務所の職員が、例大祭やみたま祭に際し、多くはその当日ではなく事前に、通常の封筒に入れて玉串料や献灯料を社務所に届けたものであり、知事は勿論、職員の参拝もなかった。
県護國神社についていえば、遺族会の要請により春と秋の彼岸に近接した日に行われる慰霊大祭に際し知事である被上告人白石が(老人福祉課長の専決処理により)遺族会会長である被上告人白石に対し供物料を支出した後、遺族会会長名義の供物料として奉納したものである(一審判決によれば、春秋の慰霊大祭の行事中に知事又はその代理者の参列についての記述がみられる)。
六 津地鎮祭大法廷事件と本件との事案の相違の最も顕著な点は右のとおりであるが、まず、検討すべき考慮要素の①「当該行為の行われる場所」についてみると果たしてどうであろうか。
この点につき多数意見は、本件公金の支出は、靖國神社又は県護國神社が各神社の境内において挙行した恒例の宗教上の祭祀である例大祭、みたま祭又は慰霊大祭に際し、玉串料、献灯料又は供物料を奉納するためになされたものであるとした上、神社神道においては、祭祀を行うことがその中心的な宗教上の活動であるとされていること、例大祭及び慰霊大祭は、神道の祭式に則って行われる儀式を中心とする祭祀であり、各神社の挙行する恒例の祭祀中でも重要な意義を有するものと位置付けられていること、みたま祭は同様の儀式を行う祭祀であり、靖國神社の祭祀中最も盛大な規模で行われるものであることは、いずれも公知の事実である、とする。これらの事実が果たして公知であるか否かは暫く措くとして、多数意見は、神社神道において中心的な宗教上の活動とされる祭祀の中でも重要な意義を有するものと位置付けられ或いは最も盛大な規模で行われる春秋の例大祭、みたま祭又は慰霊大祭が、各神社の境内で挙行されることを強調しているやに見受けられる(このことは、みたま祭において奉納者の名前を記した灯明が境内に掲げられる旨を特記する点にも表れている)。しかし、恒例の宗教上の祭祀である例大祭、みたま祭又は慰霊大祭が神社の境内において挙行されるのは、あまりにも当然のことであって(灯明の掲げられる場所が境内であることについても同様である)、問題とされた本件支出行為につき、津地鎮祭大法廷判決が例示し、本件において多数意見がこれに倣う考慮要素の一としての“当該行為の行われる場所”としての意味を持ち得るものではない。
七 次に、多数意見の掲げる考慮要素の②「当該行為に対する一般人の宗教的評価」についてみることとする。この点につき多数意見は、一般に、神社自体がその境内において(ここで再び「境内において」と強調されるのは、考慮要素①とのかかわり合いであろう)挙行する恒例の重要な祭祀に際して右のような玉串料を奉納することは、建築主が主催して建築現場において土地の平安堅固、工事の無事安全等を祈願するために行う儀式である起工式[地鎮祭]の場合とは異なり、時代の推移によって既にその宗教的意義が希薄化し、慣習化した社会的儀礼にすぎないものになっているとまでは到底いうことができず、一般人が本件の玉串料等の奉納を社会的儀礼の一つにすぎないと評価しているとは考え難いところである、という。
元来、我が国においては、(キリスト教諸国や回教諸国と異なり)各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存して来ていることは、多数意見の述べるとおりであるが、さきの津地鎮祭大法廷判決は、この点の指摘とともに、多くの国民は、地域社会の一員としては神道を、個人としては仏教を信仰するなどし、冠婚葬祭に際しても異なる宗教を使い分けしてさしたる矛盾を感ずることがないというような宗教意識の雑居性が認められ、国民一般の宗教的関心は必ずしも高いものとはいい難い、と述べている。地域社会の一員としては、鎮守の杜のお社の氏子として行動し、家に帰っては、それぞれの寺院に先祖代々の墳墓を設け、葬儀も供養も仏式によって行うというのは、国民の間で広く受け容れられている生活の類型である。
初詣には神社に参詣することが多いが、参詣者の大部分は仏教徒である。神社に参詣すれば通常はお賽銭を上げるが、履物を脱いで参殿し、神前に額づいて神職から格別の扱いを受ければ、玉串料を捧げることになる。七五三の行事は概ねこれによって行われる。式次第は神社神道固有の祭祀儀式に則って行われるが、それを受ける側の参詣者の多くは仏教徒その他神道信仰者以外の者であって、内心において信仰上の違和感を持たないのが通常であろう。
国民が神社に参詣し玉串料等を捧げるのは、初詣や神前の結婚式や七五三や個人的な祈願のための行事の機会の外に、神社神道においてその中心的な宗教上の活動であるとされる恒例の祭祀の機会がある。靖國神社の春秋の例大祭、みたま祭、県護國神社の春秋の慰霊大祭もその一つである。靖國神社や県護國神社は、元来、戦没者の慰霊のための場所、施設である。戦後、占領政策の一環として宗教法人としての性格付けを与えられたが、そのために戦没者の慰霊のための場所、施設としての基本的性質が失われたわけではない。靖國神社の祭神は百万単位をもって数える戦没者が主体であり、県護國神社のそれは愛媛県出身の戦没者が主体であるが、そのほかに、旧藩主、藩政に功労のあった者、産業功労者、警察官、消防団員、自衛官の公務殉職者等を含むとされる。祭神という言葉はいかめしいが、いわば神社神道固有の“術語”であり、神社に参詣する国民一般からすれば、今は亡きあの人この人であって、ゴッドではない。
各県における護國神社は、かつては招魂社と呼ばれた。その恒例の祭祀が招魂祭である。現に六〇歳以上の年輩者には記憶のあることであるが、「招魂祭」とは戦没者の慰霊のための催しであるとはいえ、現在の政教分離原則の下で国家神道との関係が云々されるようないかめしいものではなく、招魂社の境内には綿菓子やのし烏賊を売る屋台が並び、それらの匂いの漂う子供心にも楽しいお祭以外の何物でもなかった。
県護國神社についていえば、春秋二回の慰霊大祭に際し、「供物料、愛媛県」と書いたのし袋に一万円を入れて、県護國神社の境内にある県遺族会事務所に届け、県遺族会から「供物料 財団法人愛媛県遺族会会長白石春樹」と書いたのし袋に一万円を入れて、県護國神社に奉納したものであり、靖國神社についても、県職員が多くは事前に通常の封筒に入れて玉串料(各五千円)や献灯料(七千円又は八千円)を社務所に届け、知事は勿論、職員の参列もなかったことは、前述のとおりである。金額が軽少であることが特に注目されよう。
以上のように具体的に考察してみれば、神社の恒例の祭祀に際し、招かれて或いは求められて玉串料、献灯料、供物料等を捧げることは、神社の祭祀にかかわることであり、奉納先が神社であるところから、宗教にかかわるものであることは否定できず、またその必要もないが、それが慣習化した社会的儀礼としての側面を有することは、到底否定し難いところといわなければならない。
しかるに多数意見は、地鎮祭の先例を引いて社会的儀礼にすぎないとはいえないとする。地鎮祭は、前述のとおり、津市の主催の下に、専門の宗教家である神職が、所定の服装で、神社神道固有の祭祀儀式に則って、一定の祭場を設け一定の祭具を使用して行ったものであるのに対し、本件は靖國神社又は県護國神社の主催する例大祭、みたま祭又は慰霊大祭に際して、比較的低額の玉串料等を奉納したというのが実態であって、当該行為に対する一般人の宗教的評価いかんを判定するにあたり、前者は社会的儀礼にすぎないが、後者をもって「一般人が……社会的儀礼の一つにすぎないと評価しているとは考え難い」とするのは、著しく評価のバランスを失するものといわなければならない。
多数意見がこのように性急に論断する理由は、「県が特定の宗教団体の挙行する重要な宗教上の祭祀にかかわり合いを持ったということが明らかである」ことにある。
しかしながら、「政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ない」ことは、多数意見の自ら述べるとおりで、「そのかかわり合いが……相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを」違憲と判断するための目的・効果基準を定立し、その具体的適用にあたり検討すべき四つの考慮要素を掲げた。その考慮要素の②“当該行為に対する一般人の宗教的評価”を論ずるにあたり、「県が特定の宗教団体の挙行する重要な宗教上の祭祀にかかわり合いを持った」ことを理由に、当該行為が宗教的意義を持つとの一般人の評価が肯定されるというのでは、目的・効果基準を具体的に適用する上での考慮要素②は何ら機能していないものといわざるを得ない。
八 次に、多数意見の掲げる考慮要素の③「当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度」についてみることとする。この点につき多数意見は、考慮要素②の検討に該当する箇所において、一般人が本件の玉串料等の奉納を社会的儀礼の一つにすぎないと評価しているとは考え難いとした上で、そうであれば、玉串料等の奉納者においても、それが宗教的意義を有するものであるという意識を大なり小なり持たざるを得ないのであり、このことは、本件においても同様というべきである、とした。
玉串料等の奉納は、靖國神社又は県護國神社の挙行する恒例の祭祀中でも重要な意義を有するものと位置付けられ、或いは最も盛大な規模で行われる祭に際し、神社あてに拠出されるものであるから、宗教にかかわり合いを持つものであることは当然で、玉串料等の奉納者においても、それが宗教的意義を有するものであるという意識を大なり小なり持たざるを得ないことは勿論であろう。問題は、その意識の程度である。玉串料等の奉納が儀礼的な意味合いを持つことは、後に多数意見の説示自体にも現れる。曰く、「確かに靖國神社及び護國神社に祭られている祭神の多くは第二次大戦の戦没者であって、その遺族を始めとする愛媛県民のうちの相当数の者が、県が公の立場において靖國神社等に祭られている戦没者の慰霊を行うことを望んでおり、そのうちには、必ずしも戦没者を祭神として信仰の対象としているからではなく、故人をしのぶ心情からそのように望んでいる者もいることは、これを肯認することができる。そのような希望にこたえるという側面においては、本件の玉串料等の奉納に儀礼的な意味合いがあることも否定できない」と。
長年にわたって比較的低額のまま維持された玉串料等の奉納が慣習化した社会的儀礼としての側面を持つことは、多数意見の右の説示をまつまでもなく、社会生活の実際において到底否定し難いところであり、玉串料等の奉納者においても、それが宗教的意義を有するという意識を「大なり小なり持たざるを得ない」とする説示は、あたかも、この間の消息を物語るもののようにも感ぜられる。なお、多数意見は、本件の玉串料等の奉納に儀礼的な意味合いがあることも否定できないとした上で、たとえ相当数の者がそれを望んでいるとしても、そのことのゆえに、地方公共団体と特定の宗教とのかかわり合いが、相当とされる限度を超えないものとして憲法上許されることになるとはいえないとするが、これは既に違憲と決めつけた上での駄目押しにすぎず、この項で論じているのは、「相当とされる限度を超える」か否かの判断に資するために定立された目的・効果基準を具体的に適用するにあたり、検討すべき考慮要素の一々についてであるから、右の多数意見についてはこれ以上の言及をしない。多数意見が「戦没者の慰霊及び遺族の慰謝ということ自体は、本件のように特定の宗教と特別のかかわり合いを持つ形でなくてもこれを行うことができると考えられる」云々と説示する点についても同様である。
ところで、考慮要素③にいう、当該行為者が当該行為を行うについての意図・目的についてはどうであろうか。この点につき、多数意見は「本件においては、県が他の宗教団体の挙行する同種の儀式に対して同様の支出をしたという事実がうかがわれないのであって、県が特定の宗教団体との間にのみ意識的に特別のかかわり合いを持ったことを否定することができない」と判示した。その表現はさりげなく、その文章は短いが、その意図するところは大きい。考慮要素③にいう当該行為者が当該行為を行うについての意図・目的の検証をこれで一挙に完結させようとするものであるからである。
被上告人白石らの主張及びこれに副う書証・人証等によれば、靖國神社の例大祭、みたま祭や県護國神社の慰霊大祭以外にも、愛媛県は公金を支出して来た。千鳥ヶ淵戦没者墓苑における慰霊祭には、同墓苑の創設された昭和三四年以来ずっと公金を支出し、東京事務所長らが出席している。支出金は一万五千円(昭和六〇年)で、靖國神社や県護國神社に対する年間支出金額と大差ない。全国戦没者追悼式に際しても、毎年供花料として一万円を支出している。沖縄には愛媛県出身戦没者のための慰霊塔「愛媛の塔」(昭和三七年一〇月建立)があり、遺族会は毎年慰霊塔の前で仏式慰霊祭を行って来たが、この慰霊塔の維持管理のため、毎年公金(約二〇万円)を支出している、という。県の公金支出は宗教的目的のためではなく、目的はあくまで戦没者の慰霊や遺族の慰謝にある、というのである。千鳥ヶ淵戦没者墓苑における慰霊祭、全国戦没者追悼式、「愛媛の塔」の前での慰霊祭を挙行しているのは、なるほど宗教団体ではない。しかし、千鳥ヶ淵も、全国追悼式も、「愛媛の塔」も、靖國神社も、県護國神社も、公金の支出はすべて戦没者の慰霊、遺族の慰謝が目的であると主張されている案件において、靖國神社と県護國神社のみが宗教団体といえるものであることを捉えて、「県が他の宗教団体の挙行する同種の儀式に対して同様の支出をしたという事実がうかがわれない」との理由付けで、「県が特定の宗教団体との間にのみ意識的に特別のかかわり合いを持ったことを否定することができない」とするのは、判断として公正を欠くとの譏りを免れないであろう。これまで特定の宗教団体とのかかわり合いとされて来たのが、ここで俄かに「特別の」かかわり合いとされたことに注目すべきであろう。
九 最後に、多数意見の掲げる考慮要素の④「当該行為の一般人に与える効果、影響」についてみることとしよう。いわゆる目的・効果基準の二要件のうち、当該行為の憲法適合性を判断するための最も重要な要件に関するものである。考慮要素④につき多数意見の述べるところは少ない。曰く、「地方公共団体が特定の宗教団体に対してのみ本件のような形で特別のかかわり合いを持つことは、一般人に対して、県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており、それらの宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすものといわざるを得ない」と。
多数意見が千鳥ヶ淵戦没者墓苑における慰霊祭、全国戦没者追悼式、「愛媛の塔」前の仏式慰霊祭の例を度外視し、これら慰霊の行事の主催者が宗教団体でない点を捉えてした立論が当を得ないことはさきに指摘したとおりで、これを根拠として、「地方公共団体が特定の宗教団体に対してのみ本件のような形で特別のかかわり合いを持つ」ことの是非を論じたのは、その前提に誤りがあるものといわなければならない。しかも、この前提の上に立って、多数意見が考慮要素の④当該行為の一般人に与える効果、影響として述べるのは、「一般人に対して、県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており、それらの宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすもの」であるというに尽きる。
甚だ抽象的で具体性に欠け、援助、助長、促進との観念上のつながりを手探りしているかの感があるが、この点はむしろ一審判決の方が分かり易い。一審判決は次のようにいう。県が靖國神社に対し支出した金額は通常の社会的儀礼の範囲内に属するといってよい額である。しかし、一回一回の支出が少額であっても毎年繰り返されて行けば、県と神社との結び付きも無視することができなくなり、それが広く知られるときは、一般人に対しても、靖國神社は他の宗教団体とは異なり特別のものであるとの印象を生じさせ、或いはこれを強めたり固定したりする可能性が大きくなる。結論として、玉串料等の支出は、県と靖國神社との結び付きに関する象徴としての役割を果たしているとみることができ、玉串料等の支出は、経済的な側面からみると、靖國神社の宗教活動を援助、助長、促進するものとまではいえなくとも、精神的側面からみると、右の象徴的な役割の結果として靖國神社の宗教活動を援助、助長、促進する効果を有するものということができる、と。県護國神社への供物料についても同旨である。
一審判決は、県と靖國神社、県護國神社との間に具体的な結び付きの実体がないにもかかわらず、両者の「結び付きに関する象徴」としての役割を論じたところに無理があった。或いは結び付きの実体がないからこそ、「結び付きの象徴」として精神的側面を端的に強調したものとも考えられよう(合衆国判例における「象徴的結合」とは、事案も内容も異なる)。
津地鎮祭大法廷判決によって定立された目的・効果基準の適用にあたって、当該行為の効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるか否かの判定は、このような専ら精神面における印象や可能性や象徴を主要な手がかりとして決せられてはならない。このように抽象的で内容的に具体的なつかみどころのない観念が指標とされるときは、違憲審査権の行使は恣意的とならざるを得ないからである。多数意見は、一審判決のいう「結び付きに関する象徴」云々の表現を用いなかったが、その判旨の内容は実質的に異なるものではない。
一〇 以上、津地鎮祭大法廷判決の定立した判例法理に従うとして、多数意見が考慮要素の①ないし④について説示するところをみて来たが、論理に従ってその文脈を辿ることは著しく困難であるといわざるを得ない。考慮要素の①はそもそも本件において機能し得ず、また考慮要素の②ないし④については十分な説明も論証もないまま、多数意見は、目的・効果基準を適用して、本件支出行為と宗教とのかかわり合いが「相当と認められる限度を超えるもの」と論断した。
しかし、すでにみたように、玉串料等の奉納行為が社会的儀礼としての側面を有することは到底否定し難く、そのため右行為の持つ宗教的意義はかなりの程度に減殺されるものといわざるを得ず、援助、助長、促進に至っては、およそその実体を欠き、徒らに国家神道の影に怯えるものとの感を懐かざるを得ない。
本件玉串料等の奉納は、被上告人白石が知事に就任する以前から、通算二十数年の長きにわたり、一審判決の表現によれば「通常の社会的儀礼の範囲に属するといってよい額」を細々と長々と続けて来たものにほかならない。訴訟において関係人の陳述を指して……は何々である旨縷々陳述するが……と評することが多いが、縷々とは細く長く絶えず続くことの意味である。本件玉串料等の支出はまさしくそれに当たる。そして、この細く長く絶えず続けられた玉串料等の支出が、多数意見によって「相当とされる限度を超えるもの」とされるとき、私は今は故人となった憲法学徒の次の言葉を想起させられるのである。曰く、「民間信仰の表現としての地蔵や庚申塚が公有地の隅に存することも容認しないほど憲法は不寛容と解すべきであるのか」(小嶋和司「いわゆる『政教分離』について」ジュリスト八四八号)と。
一一 本件支出の合違憲性についての私の所見は、基本的に以上に述べたところに尽きるが、私は本件支出は違憲でないとの結論をとるので、憲法二〇条のみならず八九条についても言及する必要がある。
多数意見はこの点につき、靖國神社及び県護國神社は憲法八九条にいう宗教上の組織又は団体に当たることが明らかであり、本件玉串料等を靖國神社又は県護國神社に奉納したことによってもたらされる県と靖國神社等とのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと解されるから、本件支出は、同条の禁止する公金の支出に当たり、違法というべきであるとした。
憲法八九条は、行政実務上の解釈困難な問題規定の一つであり、多数意見が津地鎮祭大法廷判決の定立した目的・効果基準に従い、本件支出の憲法八九条適合性を判断した態度は是認されよう。津地鎮祭大法廷判決は、次のように述べている。
曰く、本件起工式[地鎮祭]はなんら憲法二〇条三項に違反するものではなく、また、宗教団体に特権を与えるものともいえないから、同条一項後段にも違反しないというべきである。更に、右起工式の挙式費用の支出も、本件起工式の目的、効果及び支出金の性質、額等から考えると、特定の宗教組織又は宗教団体に対する財政援助的な支出とはいえないから、憲法八九条に違反するものではなく、地方自治法二条一五項、一三八条の二にも違反するものではない、と。
津地鎮祭大法廷判決においていう「当該行為」とは津市当局の主催した地鎮祭の挙行であり、本件においては、玉串料等の奉納という支出以外に「当該行為」と目すべきものは存在しないから、右の先例の判文をそのままなぞって本件に翻訳することはできないが、要するに、玉串料等の奉納という本件支出の目的、効果、支出金の性質、額等から考えると、特定の宗教組織又は宗教団体に対する財政援助的な支出とはいえないから、憲法八九条に違反するものではない、というに帰着しよう。
一二 憲法八九条についての戦後の論議は、実り豊かなものではなかった(旧帝国議会での審議当時、宗教関係者が最も怖れたのは、明治政府によって国有化された、名義上の国有財産である神社・寺院の境内地等が、この規定を根拠にして全面的に取り上げられるのではないか、ということであった)。そして、その条文は、その規定に該当する限り一銭一厘の支出も許されないかの如き体裁となっている。そこで忽ち問題となるのが、津地鎮祭大法廷判決の判文にも現れる「特定宗教と関係のある私立学校に対し一般の私立学校と同様な助成を」することは、憲法八九条に違反することにならないか、ということである。
この点は、他の私学への助成金(公金)の支出が許されるのに、特定宗教と関係のある私学への助成金(公金)の支出が許されないとすれば、平等原則の要請に反するから……と説明されるのが通常である。しかし、憲法解釈上の難問に遭遇したとき、安易に平等原則を引いて問題を一挙にクリヤーしようとするのは、実は、憲法論議としての自殺行為にほかならないのではあるまいか。
一方において、宗教関係学校法人に対する億単位、否、十億単位をもってする巨額の公金の支出が平等原則の故に是認され得るとすれば、そして、もしそれが許されないとすれば即信教の自由の侵害になると論断されるのであれば、その論理は同時に、他の戦没者慰霊施設に対する公金の支出が許されるとすれば、同じく戦没者慰霊施設としての基本的性質を有する神社への、五千円、七千円、八千円、一万円という微々たる公金の支出が許されないわけがない、もし神社が「宗教上の組織又は団体」に当たるとの理由でそれが許されないとすれば、即信教の自由の侵害になる、との結論を導き出すものでなければならない。宗教関係学校法人への巨額の助成を許容しながら微細な玉串料等の支出を違憲として、何故、論者は矛盾を感じないのであろうか。すべて、戦前・戦中の神社崇拝強制の歴史を背景とする、神道批判の結論が先行するが故である。
戦前・戦中における国家権力による宗教に対する弾圧・干渉をいうならば、苛酷な迫害を受けたものとして、神道系宗教の一派である大本教等があったことが指摘されなければならない。
一三 悪の芽は小さな中に摘みとるのがよく、憲法の理想とするところを実現するための環境を整える努力を怠ってはならない。しかし、国家神道が消滅してすでに久しい現在、我々の目の前に小さな悪の芽以上のものは存在しないのであろうか。
憲法八九条に関連して一例を挙げれば、宗教団体の所有する不動産やその収益と目すべきものにつき、これを課税の対象から外すことは、宗教団体に対し積極的に公金を支出するのと同様の意味を持つ。これが政教分離原則との関係において合衆国判例において論ぜられて久しい。
我が国において、これらの点に関連して論ぜられるべき問題状況は果たして存在しないのであろうか。何故これらの点がまともに論ぜられることなく、かえって、細く長く絶えず続けられた本件玉串料等の支出の如きが、何故かくも大々的に論議されなければならないのであるか。これが疑問とされないのは何故であるかを疑問とせざるを得ないのである。
(裁判長裁判官三好達 裁判官園部逸夫 裁判官可部恒雄 裁判官大西勝也 裁判官小野幹雄 裁判官大野正男 裁判官千種秀夫 裁判官根岸重治 裁判官高橋久子 裁判官尾崎行信 裁判官河合伸一 裁判官遠藤光男 裁判官井嶋一友 裁判官福田博 裁判官藤井正雄)
上告代理人西嶋吉光、同菅原辰二、同佐伯善男、同東俊一、同草薙順一、同谷正之、同薦田伸夫、同高田義之、同今川正章、同水口晃、同井上正実、同津村健太郎、同阿河準一、同高村文敏、同三野秀富、同猪崎武典、同久保和彦、同西山司朗、同堀井茂、同渡辺光夫、同平井範明、同桑城秀樹、同臼井滿、同重哲郎、同木田一彦の上告理由
目次
第一 はじめに
第二 憲法解釈の誤り(上告理由第一点)
一 最高裁判決で示された政教分離規定の意義と目的効果基準
1 政教分離規定の意義とわが国の歴史的・文化的条件
2 国家の非宗教性と宗教的中立性
3 目的効果基準―目的審査の方法
4 目的効果基準―効果審査の方法
5 目的効果基準―まとめ
6 靖国神社、護国神社とその祭祀及び祭神の宗教性
二 原判決の憲法解釈の誤り
1 目的審査―本件玉串料等の支出についての一般人の宗教的評価
2 目的審査―一審被告白石の意図、目的及び宗教的意識の有無、程度
3 干鳥ヶ淵戦没者墓苑等における行事
4 効果審査―宣伝活動と事実上の影響力
5 効果審査―圧迫、干渉
6 効果審査―支出の金額
7 効果審査―一般人に与える効果、影響
三 憲法八九条違反
四 小括
第三 理由不備、理由齟齬(上告理由第二点)
一 はじめに
二 二〇条一項後段
三 信教の自由
四 国家機関の畏敬崇拝
五 信教に関する事項の処理
六 第二次大戦中
七 八九条の判断
八 法律違反による責任
九 一般人の宗教的評価
一〇 「法的に不可能な意図、目的」
一一 結び付きの象徴
一二 政治活動としての支出
一三 白石の行政実績等
一四 「影響力は微小」
一五 慰霊
一六 千鳥ヶ淵戦没者墓苑等
一七 他の宗教
一八 選挙による是正
一九 杞憂
二〇 場所
二一 結語
第四 判決に影響を及ぼすこと明らかな法令違背(上告理由第三点)
一 弁論主義違反
1 弁論主義
2 主張の歪曲(その一)
3 主張の歪曲(その二)
4 主張の歪曲(その三)
5 主張の歪曲(その四)
6 主張の歪曲(その五)
7 主張の歪曲(その六)
8主要事実
二 経験則違反、採証法則違反
1 靖国神社、護国神社の例大祭などの性格に関する原判決の違法
2 玉串料の定義に関する原判決の違法
3 献灯料の定義に関する原判決の違法
4 供物料の定義に関する原判決の違法
5 一審被告白石の玉串料等支出の意図、目的及び宗教的意識の有無に関する原判決の違法
6 一般人の宗教的評価に関する原判決の違法
7 一般人に与える効果、影響等に関する原判決の違法
第五 おわりに
第一 はじめに
原判決は、上告人ら(以下第一審原告らともいう)の心血を注いだ主張を勝手に作りかえた、極めて政治的判断であった。
本件第一審判決が、憲法の根本理念に沿って正当な憲法解釈をし、極めて明快に違憲判断を下し、その後同様の事案で仙台高等裁判所が同じような判断をした。従ってそれらと異なる判断をするのであれば、より深い洞察力と歴史認識を持ち、精緻な理論で説得すべきであった。しかるに原判決は政教分離の本質を全く理解しておらず、上告人らを唖然とさせる内容であった。
そこで、上告人らは次の理由で上告する。
第一点は、原判決は憲法第二〇条、八九条の政教分離条項の解釈適用を誤った重大な憲法違背である。たとえば、原判決は津地鎮祭訴訟最高裁判決(昭和五二年七月一三日)、殉職自衛官合祀拒否訴訟最高裁判決(昭和六三年六月一日)で示された目的効果基準の適用においても大きな差異があり、似て非なるものである。詳細は第二項に述べる通りである。
第二点は、原判決には理解不可能な理由不備及び理由齟齬(民事訴訟法第三九五条一項六号)があり、破棄を免れないものである。たとえば、判決は「国家機関が自然人と同様に信教の一つである神道の祭神を畏敬崇拝するということは、現行憲法の解釈としてはあり得ない法概念である」(二七丁表)などと述べ信教の自由、宗教法人をどのように解釈しているのか、理解に苦しむものである。詳細は第三項に述べる通りである。
第三点は、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違背である。たとえば、原判決は上告人らの請求原因として「靖国神社等に対する玉串料についての一般的な宗教的意識は、現在においても第二次大戦中と全く同一であり、差異がない」(一二丁裏)などと上告人らが全く主張していない事実を掲げてそれに基づき判断しているだけでなく、事実認定においても、「一審被告白石の宗教的意識は一般人が他の神社に対し支出するのと同程度の個人的な祈願すなわち主として次期の愛媛県知事への再当選を祈願するのにすぎず、それ以上に神道の深い宗教心に基づくものではない」(三八丁表)などと全く証拠に基づかずに事実を認定している。
このことは明らかに弁論主義違反であり、経験則及び採証法則に反している。詳細は第四項に述べる通りである。
第二 憲法解釈の誤り(上告理由第一点)
原判決は最高裁判決が憲法二〇条三項の解釈として提示した政教分離規定及び目的効果基準の意義を正解せずこれを曲解したうえ、あたかも最高裁判決が提示した目的効果基準に従った判示であるかのように立論しているが、その判示する内容は政教分離規定の理解が甚だ不十分であり、かつ目的効果基準に名を借りた独自の論を展開するにすぎず、結局、憲法二〇条三項の解釈適用に誤りがあることに帰する。
一 最高裁判決で示された政教分離規定の意義と目的効果基準
原判決の憲法解釈の誤りを具体的に指摘する前提として、政教分離規定および憲法二〇条三項で禁止される宗教的活動の意義につき、津地鎮祭最高裁判決、自衛官合祀事件最高裁判決で示された解釈とくに目的効果基準とはいかなる内容のものであったかをここで確認しておくこととする。そのことにより、原判決は最高裁判決の解釈に依拠したかのごとく判示しているが、その内実は目的効果基準の適用とは異なった、独特の解釈論に立脚していることが明かになる。
1 政教分離規定の意義とわが国の歴史的・文化的条件
津地鎮祭最高裁判決によれば、憲法の政教分離規定の成立の由来を次のように理解する。要約すると、
① 国家と宗教との関係には、それぞれの国の歴史的・社会的条件によって異なるものがある。わが国の場合は、旧憲法のもとでは、信教の自由の保障規定自体に「安寧秩序」、「臣民タルノ義務」からくる制限を伴っていたこと、国家神道に事実上、国教的な地位が与えられていて、ときとしてそれに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対し、きびしい迫害が加えられた等のこともあって、旧憲法のもとにおける信教の自由の保障は不完全なものであった。
② 現行憲法は、明治維新以降、国家と神道とが密接に結びつき、種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至った。元来、わが国においては、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存しており、このような宗教事情のもとで信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結びつきをも排除するため、政教分離規定を設ける必要が大であった。
③ これらの諸点にかんがみると、憲法は政教分離規定を設けるにあたり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものと解すべきである。
かように国家と宗教との関係はそれぞれの国によって異なるが、わが国の場合は、政教分離原則を選択したこと、政教分離原則を選択したわが国の「歴史的・文化的条件」として、明治維新以降の国家神道体制の弊害があり、多元的、重層的な宗教の発達、併存があることが判示されている。かかる認識は当然のこととはいえ、きわめて正当なものである。判示されている「歴史的・文化的条件」は政教分離規定の解釈にあたって絶えず顧みられるべき解釈の指針だと言わなければならない。とくに、右判決が多元的、重層的な宗教の発達、併存というわが国の宗教事情を、政教分離規定を設ける必要性を促進した「歴史的・文化的条件」として理解していることは重要であると思われる。
2 国家の非宗教性と宗教的中立性
津地鎮祭最高裁判決によれば、憲法の政教分離規定は国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものと解すべきであるが、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上、不可能に近く、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえって社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れないから、国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界がある、としたうえで、憲法の政教分離規定の解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものであるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことをまったく許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いがわが国の社会的・文化的条件に照らし、相当とされる限度を越えるものと認められる場合にこれを許さないとするものである、と判示する。
ここでは、政教分離原則の理念である国家の非宗教性と宗教的中立性とは判示において慎重に区別されていることが注目される。判示するところによれば、国家と宗教との分離を完全に貫こうとした場合の不合理な事態として、①宗教的私立学校に対する助成や宗教的文化財の維持保存のための補助金の支出が疑問とされ、それが許されないとなれば宗教による差別が生じかねないこと ②刑務所等における教誨活動がなんらかの宗教的色彩を帯びるかぎり一切、許されないとなれば、かえって受刑者の信教の自由が著しく制約されかねないことを例示する。右の事例のような国家行為を、「国家が宗教とかかわり合いをもつ」場合と呼ぶのであれば、それはたしかに「国家の非宗教性」の理念が一定の限界をもつ場合といえなくもない。しかし、それはもはや用語の問題である。まして、右の事例は国家の宗教的中立性の理念に限界を認める根拠にはならない。それらの事例では、あらゆる宗教に対して同等の条件で、同等の国家的サービスを受ける機会が開かれていなければならず、それに違反して特定の宗教に便益を与え、あるいは差別することは平等原則(一四条)のみならず、政教分離原則じたいが禁ずるところと解され、右判示もそれを当然の前提としているはずである。すなわち、国家が宗教とのかかわり合いを持つことが許されるとしても、国家の宗教的中立性の理念は堅持されなければならず、逆に言えば、国家の宗教的中立性をそこなうような形での国家と宗教とのかかわり合いは、決して津地鎮祭最高裁判決の容認する趣旨ではないということである。津地鎮祭最高裁判決が提示した目的効果基準は、国家と宗教とのかかわり合いの相当限度を画するための有効な基準として機能させるべきものであり、その客観的運用を確保するためには、目的審査と効果審査にあたって考慮するべき「諸般の事情」のひとつとして、国家の宗教的中立性をそこなうおそれがないかどうか、という観点を絶えず、見失わないことが重要であると考える。
3 目的効果基準―目的審査の方法
(一) 津地鎮祭最高裁判決によれば、「目的の宗教的意義」は当該行為主体の宗教的意識ないし主観的意図そのものとは区別される。宗教的意識ないし主観的意図は考慮すべき「諸般の事情」の一例にとどまり、他の要素をも考慮のうえ、目的の宗教的意義を「社会通念に従って、客観的に」判断するべきものとされる。この理は当然であって、当該行為に内在する目的は行為者の主観的意図とは別に客観的に把握可能であり、むしろ法的な考察方法としては、行為の客観的観察こそが重要である。当該行為主体の主観的意図が世俗的なものであったことを一面的に強調し、直ちに行為の目的の宗教的意義を否定する判断方法は最高裁の目的効果基準の適用を誤るものである。殉職自衛官合祀事件最高裁判決では、宗教との関わりあいが「間接的」かどうか、という視点が導入されたが、これは目的審査にあたり、当該行為の客観的性格を重視する発想に基づくものといえる。
(二) 右の視点は最近の下級審判決によっても忠実に取り入れられている。岩手靖国訴訟仙台高裁判決は「本件玉串料等の支出……の主観的意図ないし目的は、社会的儀礼という世俗的なもの」といえるが「右支出を客観的にみるならば」、「戦没者追悼という儀礼的、世俗的側面を有するとともに、靖国神社が宗教的行事として行う春秋の例大祭、夏のみたま祭に際し、同神社の祭神に対し畏敬崇拝の念を表することを指向してなされるものであるから、多分に宗教的側面をも有して」おり、「右二つの側面は、不可分であって、主従をつけ難」く、「右奉納のもつ宗教性は、戦没者追悼という世俗性によって排除ないし希薄化されるということはできない」もので、「世俗的側面のみに着目することは、反面、右奉納の有する宗教行為性を殊更に軽視するもの」としている。
また本件第一審松山地裁判決は、「本件玉串料等の支出は、支出者側の主観的意図としては、愛媛県出身の戦没者に対する慰霊とその遺族に対する慰藉を目的」とするものと認められるが、「靖国神社からの案内に応じ、玉串料又は献灯料といった本来その祭祀に参加する行為と密接な関連を有する名目で公金を支出する、という形で戦没者の霊を慰めるということは、戦没者の霊を慰めるという面のほかに、一宗教団体である靖国神社の祭神そのものに対して畏敬崇拝の念を表するという一面がどうしても含まれてこざるを得ない」としている。
4 目的効果基準―効果審査の方法
(一) 効果審査では「宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫干渉等になるような行為」かどうかが問題とされるが、二つの最高裁判決ではさらに効果審査を具体化したものと評価されるいくつかの視点が用意されている。
津地鎮祭最高裁判決では、神道式の起工式が行なわれたとしても「参列者及び一般人の宗教的関心を特に高めることとなるものとは考えられ」ないこと、「国家と神社神道との間に特別に密接な関係を生じ」ないこと、が効果審査において述べられている。また、殉職自衛官合祀事件最高裁判決では、地連職員の行為を具体的に評価するにあたって「その宗教とのかかわり合いは間接的であ」るとされ、特に効果審査においては「その行為の態様からして、国またはその機関として特定の宗教への関心を呼び起こ」すとは認め難いこと、が述べられている。
かように最高裁判決は効果審査にあたり、国家と宗教とのかかわり合いが間接的がどうか、国家と宗教との間に特別に密接な関係を帰結するかどうか、あるいは一般人の宗教的関心を呼び起こしたり高めたりするかどうか、という要素を考慮し、これらの要素が認められないとして地鎮祭や地連職員の行為を「宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫干渉等になるような行為」ではないとしたのであった。従って、逆にそれらの要素が認められる事案では「宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫干渉等になるような行為」との結論になる筋合いである。
(二) そのなかでも、宗教的関心を呼び起こすという要素は特に注目される。これは効果審査の「援助、助長、促進」の解釈にあたって、精神的、権威的支援の要素及び国家行為の現実的効果のみならず、その象徴的効果ないし潜在的効果をも視野に入れた総合的な判断を要請するものと理解される。これは津地鎮祭最高裁判決が判示するごとく政教分離原則の理念のなかに国家の宗教的中立性の原則を読み込む立場からの視点ということができ、目的効果基準の具体化に資する要素である。
(三) 右の視点は最近の下級審判決によって具体的に適用された。岩手靖国訴訟仙台高裁判決は「我が国における社会・文化的諸事情」と「国民の心情」に照らしてみると、かりに玉串料等の支出が「適法視」されることになれば、全国の地方自治体は「同様の公金支出をもって靖國神社への奉納に及ぶであろうこと」が「十分予想される」とし、「潜在的波及効果」を視野に入れた効果判断を示した。また、同判決は、「特定の宗教団体に対し、恒常的かつ継続的に公金の支出を行うこととなるから、その行為の態様からして、岩手県が他の宗教団体に比して、靖國神社を特別視しているとの印象を社会一般に与えている」とし、その効果は「特定宗教団体への関心を呼び起こし、かつ靖國神社の宗教活動を援助するものと認められる」こと等を指摘する。
また本件第一審松山地裁判決はさらに、公的行為のもつ「象徴的な役割」を考慮し、当該行為の伝達する意味を問題にする姿勢を示している。すなわち、終戦前における靖国神社と国家との強い結び付き、終戦後も国家との結び付きを持とうとする動き、玉串料等という支出の宗教的名目、支出の機会としてなされる祭祀の同神社にとっての重要性などの事情のうえに、支出の毎年の継続性が加わると、「それが広く知られるときは、一般人に対しても、靖国神社は他の宗教団体とは異なり特別のものであるとの印象を生じさせ、あるいはこれを強めたり固定したりし、ひいては、同神社の祭神に対しては各人の信仰のいかんにかかわらず畏敬崇拝の念を持つのが当然である、との考えを生じさせ」ることを指摘する。
(四) 殉職自衛官合祀事件最高裁判決では「この規定(憲法二〇条三項の政教分離規定―引用者)に違反する国又はその機関の宗教的活動も、それが同条一項前段に違反して私人の信教の自由を制限し、あるいは同条二項に違反して私人に対し宗教上の行為等への参加を強制するなど、憲法が保障している信教の自由を直接侵害するに至らない限り、私人に対する関係で当然には違法と評価されるものではない。」と判示する。これは逆に言えば、私人の信教の自由を「直接侵害」するに至らない場合でも、なお政教分離規定を侵害する国家行為がありうることを意味する。即ち、政教分離規定の侵害は強制の要素を必要としないことを確認したもので、通説の理解に沿うものである。
従って、最高裁判決が提示する目的効果基準の適用のうえで効果審査の「圧迫、干渉」の側面を問題とする場合、直接的あるいは現実的な強制の要素とは別の観点から考察することが要請されている。たとえば、歴史的、経験的、論理的見地からの強制の要素と結合しかねない国家行為は、信教の自由を「直接侵害」していないとしても効果審査によって適切に排除されなければならないのである。
5 目的効果基準―まとめ
右にみたように最高裁判決が提示する目的効果基準の適用においては、最高裁は国家と宗教とのかかわり合いの相当性を認定するためにいくつかの考慮事項を例示し、判断の客観性を強く求めているものと解される。考慮事項として例示されたものの意義をさらに考察すると、次のような事情を考慮することが最高裁判決の趣旨に沿うものである。
第一に、宗教的関心の喚起という視点は「一般人」の受け止め方を考慮することになるから、国家に対して宗教的中立性の外観をも要請するものと解さなければならない。
第二に、神道ないしその周辺の宗教現象が共同体の宗教と観念される傾向にある我が社会にあっては、当該国家行為によって共同体構成員に対して伝達されるメッセージの意味を視野に入れることが必要である。共同体構成員に対し、当該国家行為によって共同体の宗教として是認されたとの印象を与えたり、逆に共同体から排除されたという感情を助長することは、共同体構成員の個々の信教の自由を確実に保障するうえから禁止されるべきだからである。最高裁判決が「特定の宗教への関心を呼び起こす」効果を考慮すること、「圧迫、干渉等」という効果は、信教の自由の直接侵害=強制の要素とは別の観点から考慮することを要求しているものと解されることは、右に述べたような考察方法を要求しているものと解することができる。
6 靖国神社、護国神社とその祭祀及び祭神の宗教性
殉職自衛官合祀事件最高裁判決では「合祀は神社にとって最も根幹をなすところの奉斎する祭神にかかわるものであり、当該神社の自主的な判断に基づいて決められる事柄であることはいうまでもない」こと、「県護国神社による孝文の合祀は、まさしく信教の自由により保障されているところとして同神社が自由になし得るところであ」る、と判示された。これは、護国神社の合祀という行為が、憲法解釈上、濃厚に宗教性、私事性を有する行為であること、従って、合祀によって人霊が祭神になるという考え方も、祭神の性格も、単なる習俗として理解することは許されないことを確認したものである。むろん、人々の考え方はさまざまであって、護国神社の祭祀儀礼や祭神を習俗的なものと理解する人がいるかもしれないが、少なくとも憲法解釈としては前記のような性質を有することを最高裁が明言したことが重要である。そして、同様の理は靖国神社とその祭祀儀礼、祭神にも共通することはいうまでもない。靖国神社、護国神社及びその祭祀儀礼、祭神の性格が憲法解釈上、濃厚な宗教性をもつものであることは、絶えず顧みるべき重要な視点である。靖国神社、護国神社は形式的には宗教法人であっても他の宗教団体にはない別格の性格をもつとして、公共機関との関わりをゆるやかに解する論があるが、これは結局、形を変えた「神社非宗教論」であって、そのような論理は最高裁判決のとるところではない。
二 原判決の憲法解釈の誤り
前項で確認したことを前提として、以下で原判決が判示した政教分離原則と目的効果基準の内容を検討する。それによって、原判決は直感的、主観的に得たと思われる合憲の結論を合理化するために「目的効果基準」を借用しているに過ぎないこと、右基準を甚だしく誤用して最高裁判決の本来の目的効果基準から逸脱し、憲法解釈の誤りを侵したことを明らかにする。
1 目的審査―本件玉串料等の支出についての一般人の宗教的評価
(一) 最高裁判決における位置付け
津地鎮祭最高裁判決によれば、目的効果基準によってある行為が憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動に該当するかどうかを検討するにあたっては「諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない」とし、諸般の事情のひとつとして「当該行為に対する一般人の宗教的評価」という要素を例示する。一般人の宗教的評価という要素は主として、当該行為の目的が宗教的意義を有するかどうか(以下、目的審査という)の判断に影響する要素として例示されている。同判決は、「当該行為の一般人に与える影響、効果」という「効果審査」の要素をも例示するからである。
(二) 一般人の宗教的評価の判定方法
一般人の宗教的評価とは、裁判官の個人的、直感的判断をいうのでない。また、一般人の宗教的評価を統計的方法により直接、確認する手段はないのが通常であり、本件でもそのような資料は存在しない。そうすると、裁判官は一般人の宗教的評価を判定するにあたっては、自分の判断が単なる個人的、直感的判断に陥る危険性を自戒し、推論の客観性を担保するに足りる種々の前提的事情を慎重に分析し、「一般人の評価」として裁判官が認識するに至った結論への推論過程を判決文に表示することが必要である。それは、解釈者自身が自己の推論過程を事実と論理によって承認されうるかどうかを確認するためであり、さらに重要なのは、結論に至る過程を第三者が事後的に批判的に検証することができるようにするためである。そうでないと、裁判官の個人的、直感的判断との区別ができないからである。推論過程の明示は近代裁判の原則でもあるし、裁判官として最低限度の職業倫理であるともいえる。
(三) 原判決の誤り
本件玉串料等の支出についての一般人の宗教的評価を原判決は次のように判示する。
「玉串料等支出自体についての一般人の宗教的評価(それによる教育をしたものではないから、主として財政上の支出の点について検討する。)は、愛媛県知事であった一審被告白石が奉納したからといって、神社が宗教儀式等について特別の取扱をしたものではなく(原審証人正岡定幸証言)、その申込方法も一般と同一であるところから、愛媛県知事による支出も特別に靖国神社等と密接な関係を持つものとは認識していない。また、靖国神社等に……玉串料等を奉納しようとする一般人の意識は、神道の教義に則り靖国神社等の祭神に対する畏敬崇拝に意思を表明することとは程遠い俗事であ」る。(三〇丁表、裏)
右原判決の判示の問題点は次のとおりである。
(1) 「玉串料等支出自体についての一般人の宗教的評価」は、「愛媛県知事による支出も特別に靖国神社等と密接な関係を持つものとは認識していない」という。玉串料等支出について一般人は宗教的意義を認めているか、という問題であるはずなのに、なぜか原判決では、一般人は、特別に靖国神社等と密接な関係を持つものと認識しているかどうか、という問題にすりかわっている。本件各支出によって愛媛県と靖国神社等との間に密接な関係が帰結されたかどうかは、前述(第二―一―4―(一))したとおり、津地鎮祭最高裁判決の判示では効果審査で検討されるべき問題であった。ところが、原判決の理解では目的審査の内容として「特別に靖国神社等と密接な関係を持つ」かどうかを問題とし、しかも、そのような関係を帰結された客観的事実としてでなく、一般人が認識しているかどうか、というレベルで検討することで問題をごく限定している。これはいわゆる目的効果基準における目的審査の方法ではない。
(2) 一般人の宗教的評価を論ずるにあたり、「それによる教育をしたものではないから、主として財政上の支出の点について検討する」とわざわざ判示しているのも、原判決が目的効果基準に名を借りて、独自の「基準」を設定したことを示すものといえよう。なぜなら右判示は、宗教教育にわたるようなものが憲法の禁ずる宗教的活動であり、本件玉串料の支出が宗教教育に至らない以上、その支出は「主として財政上の支出」という観点から検討すれば足りる、との前提をとっていると理解せざるを得ないからである。しかし、津地鎮祭最高裁判決では、宗教教育に限定しておらず「そのほか宗教上の祝典、儀式、行事等であっても」、目的、効果いかんによっては当然、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動に含まれると明言されている。
(3) 原判決が一般人の宗教的評価として、「特別に靖国神社等と密接な関係を持つものとは認識していない」と結論する根拠も理解しがたい。「神社等が宗教儀式等について特別の取扱をしたものではな」い、あるいは「申込み方法が一般と同一である」とするけれども、本件では逆の事実を示す証拠しか存在しないからである。すなわち、靖国神社は愛媛県民一般に対してでなく、とくに愛媛県知事に限定して奉納の要請をしたものであり、玉串料を持参した職員に対しては正式参拝の要請をしている(靖国神社宮司である神野藤重申の証人調書―甲七二号証)。いうまでもなく右要請を受けた職員がそれを辞退したかどうかは問題でない。
また護国神社は、遺族会を介して供物料の要請をしただけでなく、愛媛県民一般に対してはしていないのに、とくに愛媛県知事に限定して例大祭への出席要請をし、大祭当日の儀式においては、献幣使の次に祭詞を奏する機会を与え、また参列者の中で玉串拝礼の第一順位者として知事を扱い、さらに大祭の前日においては、参加者が例大祭よりもさらに限定された儀式であるところの「霊爾奉安祭」(秋季大祭の場合)、「宵宮祭」(春季大祭の揚合)への出席の機会を与え、ここでも知事を玉串拝礼第一順位者としての地位を与えているのである(甲五号証の一〜四)。ことに「霊爾奉安祭」は護国神社が当該年度において新たな祭神を創出する際の儀式であって、同神社の宗教儀式の核心中の核心である。これらは証拠上、明らかな事実であり、争点にすらなっていないといってもよい。これらの事実は、「靖国神社や護国神社が愛媛県を宗教儀式等について特別の取扱をした」ということにどうしてならないのか、不可解きわまるというべきである。
(4) 一般人の宗教的評価という問題は、これを社会学的事実として探究することは不可能であり、また、そのような実証的探究が司法の役割ではないから、結局は裁判官の規範解釈に依存することになる。但し、裁判官の直感的、個人的信念をもって一般人の宗教的評価に置き換えられてしまう危険性を回避するためには、前述のとおり、推論の客観性を担保するに足りる種々の前提的事情を慎重に分析し、「一般人の評価」として裁判官が認識するに至った結論への推論過程を判決文に表示することが是非とも必要である。津地鎮祭最高裁判決では、十分かどうかは批判の余地があるにしても、ともかくも一般人の宗教的評価を推論するための判断枠組みが明示されていた。すなわち、同判決は神式による起工式が一般人によって世俗的行事と評価され、さしたる宗教的意義を認めないと推論した根拠を次のとおりあげている。
① 起工式は宗教的起源を持つ儀式であったが、時代の推移とともに、宗教的意義が次第に稀薄化してきており、今日においては、もはや宗教的意義がほとんど認められなくなった建築上の儀礼と化していること
② 当該起工式は神社神道固有の祭祀儀礼に則って行われたものであるが、かかる儀式は、国民一般の間にすでに長年月にわたり広く行われてきた方式の範囲を出ないこと
右の観点で本件をみるとどうなるか。恒例祭である本件各支出対象行事に向けられた玉串料等の支出は、「時代の推移とともに、宗教的意義が次第に稀薄化してきており、今日においては、もはや宗教的意義がほとんど認められなくなった儀礼」と化しているとはいえない。何度も繰り返すように、本件で問題とされるべきは、およそ玉串料等の一般的な宗教的性格なり歴史的起源ではなく、靖国神社、県護国神社によって執り行われた本件各支出対象行事(恒例祭)に向けられた玉串料等の性格なのである。本件各支出対象行事(恒例祭)に向けられた玉串料等は、せいぜい国家神道体制が創出された明治初期に起源をもつに過ぎず、伝統的な民衆文化、地縁社会から切り放した国家神道体制を構築するために最大の宗教的意義を与えられて出現したのが本件玉串料等の起源である。みたま祭における献灯料は敗戦後に生まれたものにすぎない。
また、本件玉串料等の支出が「国民一般の間にすでに長年月にわたり広く行われてきた方式の範囲を出ない」とは到底、いえない。本件各支出対象行事(恒例祭)は参加者がごく限定され、神社の固有の宗教施設の中で行われるものであり、従って、本件各支出対象行事(恒例祭)に対して玉串料等を奉納する機会をもった国民はごく少数でしかないことは明らかだからである。
(5) さらに原判決は、右のとおり本件で問題とすべきは、あくまでも、靖国神社の例大祭に向けられた玉串料の支出、同神社のみたま祭りに際しての献灯料の支出、県護国神社の慰霊大祭に向けられた供物料の支出に対する一般人の宗教的評価であるべきところ、ことさら、右の恒例祭に向けられた支出である事実を無視して問題を一般化し、およそ「靖国神社等に玉串料等を奉納しようとする一般人の意識」の問題に置き換えたうえ、これを「特に、神道の奥義を究めこれに従う者としてではなく、それらに合祀されている……知人等の慰霊のほか個人的な願い事の成就が目的であって、それは神道の教義に則り靖国神社等の祭神に対する畏敬崇拝の意思を表明することとは程遠い俗事であ」る、とする(三〇丁表、裏)。
右の判示は二重の意味で誤っている。
第一に、本件のように、靖国神社、護国神社に対して支出された玉串料等は、社会生活上、一般人が気の向いた時に当該神社に立ち寄って奉納することがあり得べき金員の支出とは全然、異なり、参加者がごく限定された例大祭等の恒例祭における支出であって、特に当該神社が選定した対象者に対する特別の奉納要請に基づき、それに応答する行為としてなされた支出である事実をことさらに無視していることである。起工式であれば、一般人がその人生でだれでも当事者として立ち会うことがあり得べき儀式であって、その際の一般人の意識を問題とすることも可能であるが、本件支出は一般人からは閉ざされた世界の儀式に向けられたもので、一般人が普遍的に経験できる儀式ではない。従ってそのような儀式に対する本件玉串料等の支出をするに際しての一般人の意識を問題とすることはそもそも意味をなさないのである。原判決も、その点の論理矛盾を自覚したものかどうかはわからないが、「一般人の宗教的評価は、特別に靖国神社等と密接な関係を持つものとは認識していない。」として、前述(1)のとおり、当該行為の宗教的意義の問題としては宗教性を否定する論証ができないために、効果の問題にすりかえて説示せざるをえなかったのであろう。まことに苦し紛れの判示といわなければならない。
第二の誤りは、右に述べた事情により、原判決は本件の具体的な例大祭等における玉串料等の支出についての一般人の宗教的「意識」を問題とすることができないため、問題を、およそ玉串料等を奉納しようとする一般人の意識というレベルにまで一般化、抽象化したうえ、これを俗事と断定した点である。右のようにして論じることは論点のすりかえであり、本件に何らの関係もなく論証になっていないが、一般化、抽象化した玉串料等の意義についてすら、これを「俗事」と断定したのは、あたかも専門の宗教家のなす行為でなければ宗教行為というに値せず、一般民衆によってなされている宗教現象はすべて俗事である、とでもいうかのごとき、すさまじい暴論である。ところが、原判決は他方では、無宗教の方式で実施されていることを誰も疑わない拝礼式(千鳥ケ淵戦没者墓苑)、平和記念式典(広島市の平和都市記念碑)などの行事をさして「既成の特定宗教には属さないけれども一つの新たな宗教集団による宗教行事であることは否定でき」ない(三五丁表)との極端な理解を判示する。このように「俗事」と宗教行事について両極端に矛盾した判示を展開する原判決の真意を首尾一貫した形で理解することは不可能といってよい。直感的に得た合憲の結論を合理化するためにだけ、目的効果基準が誤用されていると批判せざるをえない所以である。
(四) まとめ
「一般人の宗教的評価」という要素は津地鎮祭最高裁判決によれば、いわゆる目的審査における重要なメルクマールである。そして、津地鎮祭最高裁判決ではその判断方法について一応の接近方法が示されているにもかかわらず、原判決はこれを無視し、目的審査と効果審査を混乱させ、その結果「一般人の宗教的評価」の名のもとに、意味不明の説示を連ねている。これは最高裁判決の目的効果基準の適用とはほど遠い内容であり、結局、目的効果基準に名を借りて、まったく独自の、解釈論というに値しない異様な論を展開するに過ぎず、憲法二〇条三項の解釈適用を誤ったことに帰着する。
2 目的審査―一審被告白石の意図、目的及び宗教的意識の有無、程度
原判決が「一審被告白石の玉串料等の支出の意図、目的及び宗教的意識の有無、程度」という項で判示している内容(三〇丁裏〜)は、原審裁判官の独特かつ異様な思考方法が特徴的に現れている。ここでもその論旨を内在的に理解し、首尾一貫した形で整理することはかなりの困難を伴うのであるが、できるだけ、正確に要約し、その憲法解釈の誤りを指摘する。
(一) 原判決によると、第二次大戦中の靖国神社(護国神社の取扱も靖国神社に準ずる、とする)の法的地位は国家行政組織法の行政機関であって国家予算でその財政を維持しており、「国家神道実践の核心的な地位」にあり、「第二次大戦中の戦没者を祭神として合祀し、国民に対しそれを畏敬崇拝するよう教育し、国家機関自体も自然人と同様に、その祭神を畏敬崇拝し」ており、「その時代には、まさに、国家機関が宗教活動を行っていたものであった。」(三一丁表、裏)という。
この判示部分だけをとりあげれば憲法解釈上、間違ったことを判示しているわけではないのであるが、原判決の言いたいことは、「その時代(第二次大戦中―引用者)には、まさに、国家機関が宗教活動を行っていたものであった」という一点にのみあり、そのことは、その後の判示の展開から明らかとなる。要するに、第二次大戦中におけると同じような靖国神社、護国神社の「法的地位」、「法律関係」に復活させ、国民に対しそれらの祭神を畏敬崇拝するよう教育し、国家機関自体も自然人と同様に、その祭神を畏敬崇拝するような事態にならないかぎり、政教分離規定に違反する国家機関の宗教活動とはいえない、という結論を導くための伏線である。
(二) 原判決は、右のとおり国家が国民の精神までも総動員した第二次大戦中の狂気の時代を一方に対置し、戦後の現行憲法での変革を述べ、靖国神社法案制定運動が一頓挫している現在の状況に触れたあと、次のように結論づける。
「たとえ、国家機関の一部の者がその意図又は目的で(靖国神社、護国神社につき、第二次大戦中と同一の法的地位、法律関係に復活させる意図又は目的で―引用者)玉串料等を支出した場合でも、法的に不可能な意図、目的となるから、その点では、その目的による行為が憲法二〇条三項の禁止する国家機関による『宗教的活動』と評価される法的な根拠は存在しないといえる。」(三二丁裏)
「終戦後の憲法の基本的大改正に従い、靖国神社等の……法的地位、法律関係が全て消滅し、その後、……靖国神社法案が……廃案となり、国民の大多数の意思が、そのような法的地位、法律関係を望まないものとして確定され、従って、又、この点から考えても、一審被告白石の意図がこのような靖国神社等の第二次大戦中と同一の法的地位、法律関係の復活を目的としたものとはいえ」ない。(三七丁裏〜)
右の判示は上告人らの主張を原判決が勝手に創出して、「一審被告白石の玉串料等の支出の意図、目的は、靖国神社等につき、第二次大戦中と全く同一の法的地位、法律関係を復活することにあり、そのため知事に在任した四期一六年間の長期にわたり玉串料等の支出を継続し、国家機関によって靖国神社を普及し、国家財政の援助によりその経営を維持しようとするもので、それはいわゆる国家護持運動による行為と一致するものである。」(一四丁裏)などと、とんでもない「主張整理」をしたうえでの判断であるから弁論主義違反に該当するとともに、その論旨の支離滅裂さは理由不備、理由齟齬にも該当するが、それぞれの違法は別項に譲り、ここでは憲法解釈の誤りの観点から右判示を検討する。
(1) 原判決は、「たとえ国家機関の一部の者」が靖国神社、護国神社を第二次大戦中と同一の法的地位、法律関係に復活させる意図で玉串料等を支出した場合でも、それは「法的に不可能な意図、目的」であるから、その目的による行為が憲法の禁止する「国家機関による『宗教的活動』であると評価される法的根拠は存在しない」という(三二丁裏)。これは、どのような憲法解釈に基づく立論であるのか、直ちに理解することは困難なのであるが、詳細に分析してみると、原判決によってたつ特異な解釈をここに伺うことができ、原判決の結論はまさしく、この判示部分によって根拠づけられていることがわかる。
原判決の趣旨は、およそ国家機関が靖国神社、護国神社を第二次大戦中と同一の法的地位、法律関係に復活させる意図で玉串料等を支出することは憲法の政教分離規定に違反する意図、目的であるとの理解のもとに「法的に不可能な意図、目的」と判示しているのであろうか。しかし、そう理解すると、違憲の意図をもってなされた国家機関の行為は「法的に不可能な意図、目的」であるから「宗教的活動と評価する法的根拠はない」というナンセンスきわまりない憲法解釈をとっていることになり、それは目的効果基準の適用というレベルのものでないことは明白である。
(2) そうすると、原判決は、靖国神社、護国神社を第二次大戦中と同一の法的地位、法律関係に復活させる意図で玉串料等を支出しても、現行憲法が「終戦後、根本的な大改正」をし、靖国神社等の根拠法令が全て廃止され、その「法的地位、法律関係がすべて消滅した」ことや、靖国神社法案が国会で廃案となり、それが「国民の大多数の意思として確定」していることからすると、そのような意図を「国家機関の一部の者」が有して行動したところで「法的に不可能な意図、目的」であるから、そのような些細な行為をあえて憲法の禁止する「国家機関による『宗教的活動』である」評価する根拠はない(すなわち、憲法的評価の対象となるべき「国家機関」の活動にあたらない)とするものであろうか。論旨を仔細に検討すると、国家機関一般としてでなく「国家機関の一部の者」とわざわざ限定して論じていること、特に第二次大戦中と同一の「法的地位、法律関係」の復活という表現を何度も使用したことからみて、原判決はこの驚くべき解釈をとっているものと思われるのである。
原判決の論旨に従うなら、政教分離規定によって禁止される国家行為として、主として立法行為が念頭に置かれていることは明らかで、立法行為以外にも広範に想定される違憲の国家行為について、政教分離規定が禁止規範として機能する余地をほとんど認めていないといわざるをえない。しかも、禁止される場合は、靖国神社等を「第二次大戦中と同一の法的地位、法律関係」を復活させるような場合であり、それに至らない限り、憲法の禁止する「国家機関による『宗教的活動』であると評価される法的根拠は存在しない」ことになる。その結果、立法行為以外にも広範に想定される違憲の国家行為(それは非明示的、非公然的、非組織的、非包括的、非継続的な国家行為の形をとるであろうし、とくに「国家機関の一部の者」による場合がほとんどである)にして、「第二次大戦中と同一の法的地位、法律関係」を復活させるに至らない程度の靖国神社等との結合は憲法規範の対象の外に放置され、実質的に一律合憲とされてしまうのである。
かように原判決のよってたつ解釈は、靖国神社法案が国会で廃案となっているだけの政治的事態に対して、何らかの「法的な確定力」を認めるような議論を展開する誤謬はいうまでもないが、さらに根本的な誤謬は、靖国神社、護国神社を第二次大戦中と同一の法的地位、法律関係に復活させる意図で玉串料等を支出しても「国家機関の一部の者」による活動であるかぎり違憲の問題は生じない、とするもので、もはや法的な論理以前というべきものである。かような憲法解釈を前提とするなら、本件のように「国家機関の一部の者」にすぎない一地方公共団体の知事が、どのような主観的意図、宗教的意識をもって本件玉串料等の支出をしたか、という問題を設定すること自体が無益である。なぜなら、一審被告白石がたとえ違憲的意図ないし明白な宗教的意識を有していたとしても、それは「国家機関による『宗教的活動』であると評価される法的根拠は存在しない」からである。
(3) かようにして、原判決の「目的審査」においては「一審被告白石の意図、目的及び宗教的意識の有無、程度」という事情は、結論に何らの影響をも与えない全く無意味な要素となっており、いかなる意味でも「目的審査」といえるものではない。原判決は「遺族援護行政を利用して、その趣旨の政治活動として」支出した(三三丁表)とか、「次期の愛媛県知事への再当選を祈願するのにすぎ」なかった(三八丁表)とかの事情を認定するが、原判決の判断枠組からすれば無用の事実認定であった。そのような「世俗的」目的を認定しなくても、始めから違憲の結論には到達することのない判断枠組を前提としているからである。
(4) 右に続いて原判決は「更に、一歩譲って、一審被告白石の内心の意思においてそれ(靖国神社、護国神社を第二次大戦中と同一の法的地位、法律関係に復活させること―引用者)を意図したとしても」などと、原判決の判断枠組によれば結論に影響しないはずの事情を仮定するという不可解な「譲歩」をしてみせたうえ、それでも本件では一審被告白石の「自らによる宣伝活動」がなかったから「一般に一審被告白石の内心の意思を知る機会に乏しく」、「事実上の影響力は微小である」(三三丁表、裏)として、効果審査の問題との混乱に陥って合憲の論理を展開する。まことに語るに落ちたというべき判示である。
上告人らが主張していない一審被告白石の極端な支出目的を創作して事実摘示をしたうえ、そのような目的の有無は結論に影響しない無意味な事情であるとの判断枠組を示し、それでも事実認定の問題としても右目的は認定できないとしておきながら、「一歩譲って」右目的が認定できるとしても合憲の結論は変わらない、というのが原判決の論旨である。その論理の混迷は止まるところがない。
(5) 結局、原判決が本件玉串料等の支出の意図、目的を判断するにあたって前提とした憲法解釈は、右に述べたとおり、どのように理解しても目的効果基準の適用というレベルではなく、違憲の意図をもってした国家行為は、違憲との評価を受ける法的根拠がない、とのナンセンスきわまりない憲法解釈をとっているか、国家機関の一部の者が靖国神社、護国神社を第二次大戦中と同一の法的地位、法律関係に復活させる意図で玉串料等を支出しても憲法的評価の対象とはならない、との恐るべき憲法解釈をとっているかのいずれかであって、その解釈の誤りは明白である。しかも、ここで原判決が説示するところは、後述するように、効果審査において、「圧迫、干渉」という要素をはじめから判断しないですませる、という判断方法の根拠として再度、説示されており、原判決の理由中の根幹をなす説示といわねばならないのである。
(三) また原判決によると、戦没者の「慰霊の方法」は「靖国神社等に合祀されたまま更に他の宗教による慰霊、追悼」によっている者もあるが、「大部分は依然として靖国神社等に頼らざるを得ないのが現状である」としたうえで、「靖国神社等の例大祭、みたま祭、護国神社の慰霊大祭の際の慰霊に対する一般人(但し、無宗教者を除く)の意識は、……第二次大戦中の靖国神社等の法的地位、法律関係への復活を願うものではな」いとし、戦没者の家族、知人等が右大祭においてなす慰霊の目的は「戦没者(の)生前を偲び追悼することと、……戦没者の鎮魂を祈ることに主眼がある」として、一般人(但し、原判決によれば無宗教者を除かれる)の意識は、右の目的を「是認し、それを見守るけれどもこれに積極的には参加しないだけのことである」と一般人の意識を論定したうえで、一審被告白石は「そのような個々の国民の宗教活動に際して、これを……遺族援護行政上の目的から支出したものに過ぎない。」とする(三三裏〜三四丁裏)。
右判示は前記のとおり、一審被告白石の支出の目的いかんにかかわりなく、合憲の結論しかありえない判断枠組を前提とする点で無意味であるが、判示自体にも次の誤りがある。
(1) 第一に、戦没者の「慰霊の方法」について「大部分は依然として靖国神社等に頼らざるを得ないのが現状である」とし、あたかも、戦没者の遺族等の大部分は靖国神社に頼らなければ「慰霊の方法」をもっていないかのように判示するのは単純明白な誤りである。戦没者の「慰霊の方法」として「他の宗教による慰霊、追悼」によることなく、専ら「靖国神社に頼」っている者は、存在するとしてもごく少数である。大部分は、原判決のいうところとは逆に、靖国神社以外の「他の宗教」にもよっている。これは公知の事実に属することといえる。
(2) 第二に、「一般人の意識」を問題とするのであれば、靖国神社、護国神社の主宰する大祭等に向けて奉納された玉串料等の支出についての「一般人の意識」を問題とするべきものである。ところが、原判決は「靖国神社の慰霊大祭の際の慰霊に対する一般人の意識は」としつつ、判示の途中で、右大祭等に参列する遺族等の「慰霊の真の目的」の問題にかわってしまい、それに対する一般人の意識を論じるのみで、結局、靖国神社の大祭等及びそれに向けられた玉串料等の支出に対する一般人の意識の問題は全然、ふれられていない。これでは論点のすりかえである。
(3) 第三に、ここで原判決のとらえる「一般人の意識」の内容である。右の大祭に参列する戦没者の遺族らの「慰霊」を一般人は「是認し、それを見守るけれどもこれに積極的には参加しないだけのことである」とする原判決の趣旨は明確ではないが、要するに、靖国神社の例大祭等に参列する遺族等の行う「慰霊行為」を一般人の意識はとくに違和感なく受け入れているとの意であろう。しかし、本件の問題は、靖国神社の大祭等に参列する遺族の「慰霊行為」をどう評価するかではなく、靖国神社の大祭等及びそれに向けられた玉串料等の支出をどう評価するか、であって、問題点を見誤っている。そして問題点を見誤ったうえで、さらに遺族らの「慰霊」を一般人は「是認し、それを見守るけれどもこれに積極的には参加しないだけ」と認定する点も著しい独断である。ことの実態はそうではなく、遺族らの右「慰霊」をとくに違和感なく受け入れている者もいるだろうけれども、逆に「平和遺族会」、「真宗遺族会」のように靖国神社の祭神とされることを明示的に拒否する遺族も存在するのであり、あるいは、宗教的寛容の立場からあえて異を唱えない者もいるし、さらには靖国神社の大祭等における宗教儀式の実情が一般に開放されていないため、関心を向ける機会のない者もいるのである。原判決は裁判官の個人的、直感的信条をもって「一般人の意識」に置き換えようとするものにすぎない。
(4) 第四に、原判決は、靖国神社等における大祭に参列する遺族等の「慰霊」行為を「そのような個々の国民の宗教活動」と判示するところからすると、靖国神社の例大祭等における宗教儀式およびそれに参列する戦没者の遺族等の行う「慰霊」行為を習俗的行事でなく、宗教活動とみていることは明らかであるが、宗教活動であると認定しながら、それを一般人が「是認し、」「見守る」ことを根拠として、本件玉串料等を「遺族援護行政上の目的から支出したものにすぎない」とした判断には憲法解釈の誤りがある。
津地鎮祭最高裁判決では、起工式は「一般人の意識においては……さしたる宗教的意義を認めず、建築着工に際しての慣習化した社会的儀礼として、世俗的行事と評価しているものと考えられる」ことが合憲の結論を導くための重要な要素とされていた。ところが原判決では、前記「慰霊」行為を「宗教活動」であるとしながら、それが一般人によって違和感なく受け入れられているとの趣旨で(そのような判断は裁判官の個人的信条にすぎないことは前述のとおりであるが、そのことを措いても)、津地鎮祭最高裁判決のように当該行為の「習俗化」ないし「世俗化」という媒介を経ることなく合憲の結論を導く論拠とされている。このような解釈では政教分離規定は立憲主義的規範として機能しない。多数者が違和感なく受け入れるような宗教活動であれば、それが世俗化したとの契機が存在しなくても国家が関与することが許されるとすれば、政教分離原則は「制度的保障」どころか、多数者の意識及び多数者の意識としてそれを認識したとする裁判官の主観によって、その規範的意味は限りなく軟化してしまう。これは政教分離原則にとってきわめて危険な論理である。原判決は、第二次大戦中と現行憲法との比較をしきりに試みるけれども、「靖国神社、護国神社における『慰霊行事』は、たとえ宗教行事ではあっても無宗教者や宗教的少数者を除いた一般人が違和感なく受け入れているのだから、個人の宗教信条いかんとは無関係に靖国神社、護国神社の祭神に対しては敬意を払って当然である」という考え方ないし風潮が、再び我が国の支配的勢力となることに対して、原判決はどのような歯止めを考えているのであろうか。原判決の論理には歯止めになるものは皆無である。むしろ、そのような考え方ないし風潮を歓迎し、助長するのが原判決の論理なのであり、結局、形を変えた「神社非宗教論」にほかならない。津地鎮祭最高裁判決がそのような論理をとっていないことは明白である。同判決は前記のとおり、一般人の意識における習俗化ないし世俗化の契機を前提としているのであって、宗教活動を宗教活動として認めながら、多数者がそれを受容しているからといって、それを根拠に国家の関与を緩やかに認める論理はとってはいない。それは目的効果基準の限りない堕落であり、政教分離規定の自殺である。ここでも原判決は目的効果基準に名を借りた、政教分離原則を有名無実にする独自の基準の設定を試みようとするもので、憲法解釈の誤りは著しい。
(5) 第五に、一般人の意識を問題とするにあたり、ことさら、原判決が無宗教者を除いたことの真意である。裁判所が考慮するべき「一般人」には無宗教者は含まれないということになる。政教分離規定によって守られるべき価値は国家の非宗教性および宗教的中立性である。その価値は宗教を信じる人にとっても重要であるが、それと同等に(あるいはそれ以上に)、自覚的に宗教から遠ざかろうとする精神ないし人格にとっても重要なのである。原判決は無宗教者の内面生活の自由をひどくおとしめて理解しているといわざるをえない。無宗教者とは宗教的に潔癖を欠く者も含まれようが、政教分離原則=国家の非宗教性、宗教的中立性との関係では、むしろ宗教的要素とは別のところに精神の自律性を求めようとする近代的自我=無宗教者にこそ配慮しなければならない。右判示は、政教分離規定が右の意味での無宗教者の精神的自由を守ることにもあるという意義を、積極的かつ明示的に否定している点で根本的に誤っている。その結果、裁判所が考慮するべき一般人から無宗教者を除外するという不可解な前提により目的効果基準を用いている点で原判決の憲法論としての格調はあまりに低く、津地鎮祭最高裁判決で示された政教分離原則の理解からはさらに遠く逸脱したものである。
3 千鳥ケ淵戦没者墓苑等における行事
原判決は千鳥ケ淵戦没者墓苑、広島市の平和都市記念碑などの施設による「戦争記念日の行事」なども戦争犠牲者の慰霊、追悼を一つの目的としている点では靖国神社等と同一であり、「それらの行事は既成の特定宗教には属さないけれども一つの新たな宗教団体(無宗教者はこのような慰霊、追悼の思想を排斥するからそれらの者によるものではない。)による宗教行事であることは否定できず、それらについて公費の支出、花輪等の献上等がされている。」と判示する(三四丁裏〜三五丁表)。
右の判示の趣旨は、千鳥ケ淵戦没者墓苑、広島市の平和都市記念碑などの施設による行事も「一つの新たな宗教集団による宗教行事」であって、それに対して公費の支出がなされているのであるから、「戦争犠牲者の慰霊、追悼を一つの目的」とする点で性質を同じくする靖国神社等における宗教行事に対して公費の支出がなされても問題とするにあたらないとするものであろう。しかし、千鳥ケ淵戦没者墓苑で国が主催して行なう拝礼式や、広島平和都市記念碑での平和記念式典がいかなる宗教的儀式も伴うことのない非宗教的行事と認定すべきことは本件証拠上、明らかである(甲第六六号九六頁、九八頁)だけでなく、むしろ公知の事実というべきものである。この事実を何らの根拠も示すことなく否定し、「一つの新たな宗教団体による宗教行事」と断ずることは経験則・採証法則に違反すること著しいのみならず(上告理由第三点)、前述のとおり、別の判示部分では靖国神社等に玉串料等を奉納しようとする一般人の行為を、「慰霊のほか個人的な願い事の成就が目的」であって「俗事」と断定する(三〇丁裏)ことと完全に矛盾し、これは理由不備の違法(上告理由第二点)にも該当する。さらに憲法解釈の誤りの観点からいえば、非宗教的行事である千鳥ケ淵戦没者墓苑等における行事と、どこからみても宗教的行事である靖国神社等の例大祭等(最高裁判決も自衛官合祀事件判決でこれを確認していることは第二―一―6で述べた)とを同一視するという誤った判断がここに示されており、判決の論旨のうえでこれが本件各支出を合憲とする根拠のひとつとされているのであるから、原判決が憲法解釈の誤りを侵していることは明らかである。
4 効果審査―宣伝活動と事実上の影響力
前述のとおり原判決は「一歩、譲って、一審被告白石が内心の意思においてそれ(靖国神社等を第二次大戦中と同様の法律関係、法的地位に復活させること―引用者)を意図したとしても、広く一般国民に対しその意図で玉串料等の支出を勧めるなどの自らによる宣伝活動のなかった本件においては、一般に一審被告白石……の内心の意思を知る機会に乏しく、実際にその気風を呼び起こしたものでもなく、事実上の影響力は微小である。」と判示する(三三丁表〜裏)。この部分の判示は、一審被告白石の内心の意図がどうであれ、本件では効果審査に抵触する事情はないとの趣旨であると理解できる。この判示の問題点は次のとおりである。
第一に、原判決の論旨からするなら、一審被告白石の内心的意図が靖国神社等を第二次大戦中と同様の法律関係、法的地位に復活させることにあったとしても、それだけでは当該行為を違憲とするに足りず、さらにその旨の宣伝活動等の他の要素も加わる必要があるということになろう。原判決がこのような解釈をとっていると思われる根拠については前述した(第二―二―2)。これはいわゆる「目的効果基準」でない。異様な独自の基準の設定である。
第二に、効果審査の方法につき、広く一般国民に対する宣伝活動がなかったことをもって「事実上の影響力は微小であるとする」のは津地鎮祭最高裁判決がとる立場ではない。同判決は「宗教教育のような宗教の布教、教化、宣伝等の活動」のほか、宗教上の祝典、儀式、行事等であっても憲法の禁じる宗教的活動に該当することがあることを明言している。原判決の論旨からすると、公然たる宣伝活動をともなう国家行為でなければ効果審査の対象とならないことに帰する。しかし、最高裁の提示する効果審査は、公然かそれとも隠密裡に実施されるかによって同一の行為が合憲となったり、違憲となったりするような皮相なものではなく、この点でも原判決の憲法解釈の誤りが明らかである。
第三に、敢えて「宣伝活動」、「事実上の影響力」を問題とするのであれば、本件では優にその事実があったことを無視している点である。一審被告白石はそれまで靖国神社に対して玉串料等を支出していた各県が一九八二年(昭和五七)一月二九日からの自治省の行政指導を受けて次々と支出を取り止めていったにもかかわらず、敢えて、愛媛県一県だけでも支出を継続すると公言してはばからなかったばかりか、一九八三年(昭和五八)一月の知事選において右支出を公約にまでしてその後の支出を敢行し、県議会の反対意見にも全く耳を貸さなかった(甲八号証の一七〜二二、二七、三五、三六、四〇、四一、四六、乙第一〇二号証)。これらの言動は広く、マスコミによって報道されたし、さらに靖国神社の国家護持を支持する発言を出版物として公刊さえしている(甲第七八〜八〇号証)。一体、宣伝活動なり事実上の影響力を与える行為として、これ以上の何を必要とするというのか、原判決の判示は、全く理解しがたいものである。
5 効果審査―圧迫、干渉
原判決によると「一審被告白石の玉串料等の支出は、他の宗教である仏教……、キリスト教を圧迫、干渉するものであるとの考えは、いずれも、各宗教による死者に対する宗教上の取扱の差異、すなわち、……宗教自体の教義に関する問題を根拠とするものであって、そのこと自体は司法審査の対象となるものではなく、そのような考察方法は、前記説示のようなそれが国家機関として禁止される宗教的活動かどうかという法的視点に欠ける考察であり、相当ではない。」という。
「圧迫、干渉」という効果判断は、前述(第二―一―4)のとおり強制の要素とは別の観点から考察されなければならない。宗教上の教義の正当性が司法審査の対象とならないことは自明のことである。問題は、特定の宗教団体が行なう、当該宗教団体の教義と密接に関わる祭祀に国家が関与することは、他の宗教の存立根拠をおびやかすことにならないか、ということであり、それが「圧迫、干渉」を考察する視点である。ところが、原判決は「そのような考察方法は、前記説示のようなそれが国家機関として禁止される宗教的活動かどうかという法的視点に欠ける考察」であるとして「圧迫、干渉」という効果判断を全くしていない。目的効果基準を標榜しながら、「圧迫、干渉」の観点からの効果審査を全然、しないですませる、という判断手法は、どういう解釈論を前提とした判断なのか、到底理解できない。
原判決は「前記説示のようなそれが国家機関として禁止される宗教的活動かどうかという法的視点」を前提とするべきだと説示するのであるが、「前記説示」というのは、「たとえ、国家機関の一部の者が(靖国神社、護国神社を第二次大戦中の法的地位、法律関係に復活させる意図又は目的で―引用者)玉串料等を支出した場合でも、法的に不可能な意図、目的となる」から、憲法の禁止する「国家機関による『宗教的活動』と評価される法的根拠は存在しない」(三二丁裏)との説示部分をさすものと思われる。その説示部分の誤りであること、最高裁のいう目的効果基準とは異質の前提をとっていることは前述(第二―二―2)したとおりである。
6 効果審査―支出の金額
原判決は本件支出の金額をとりあげ、その額が第二次大戦中の靖国神社等に対する国家財政による援助とは比較すべくもない少額であること、靖国神社等の玉串料等の総額に対比すると極めて零細な額であって、一般人と同程度のものであることから、「社会的な儀礼の程度に止まって」いる、という(三八丁裏)。原判決は政教分離原則の理解がはたしてできているのか、ここに至って深刻に疑われる。国民が私人として自由になしうる宗教的活動が、国家機関として行ないえないことがある、というのが政教分離規定の意義のはずで、金額が一般人と同程度であるから政教分離規定に抵触しないという論理は成立する余地がない。また、津地鎮祭最高裁判決は、一般人の意識においては起工式を建築着工に際しての慣習化した社会的儀礼として評価しているものと判断したが、憲法二〇条三項の解釈に関しては、起工式の挙式費用が少額であることは「慣習化した社会的儀礼」と認定した根拠とは一切、されていない。右の事案でも挙式費用は七六六三円(神職に対する報償費四〇〇〇円、供物料三六六三円)であって、少額、零細といえばいえなくもないが、そのような事情はあえて、「社会的儀礼」の判断及び効果審査では考慮しないのが最高裁の立場なのである。
ちなみに津地鎮祭最高裁判決では、当該起工式の挙式費用の支出が八九条に違反しないことの根拠として、目的、効果のほかに、始めて支出金額の性質、額を考慮しており、このことからも、目的効果基準の適用において支出金額の多寡を問題とすることの誤りをみることができ、原判決が目的効果基準でなく、独自の論に立っていることがここでも明らかである。
7 効果審査―一般人に与える効果・影響
(一) 原判決は次のとおり判示する。
「長年にわたる一審被告白石の玉串料等の支出が後日の県議会の審議、報道等により明らかになりその結果何らかの世論が形成されたとしても、それ自体は一審被告白石の意思、目的とは直接の関係がないから、同人の責任であるとはいえず、その批判ないし是正はその後に行なわれる知事選挙で選挙民の意思を反映させる方法によるべきである」(三六丁表、裏)。
右判示の趣旨はここでも明確ではなく、「一般人に与える効果、影響」として何をいいたいのか理解が困難なのであるが、要するにこういうことであろう。
即ち、一審被告白石の本件玉串料等の支出行為が一般に周知されることとなった結果、一般人の靖国神社等に対する宗教的関心を喚起したり、右行為が政教分離原則違反であるとの世論が形成されたり、その憲法適合性について国民相互の間で宗教、宗派に沿った形での分裂ないし対立が惹起されたとしても、そのような事態は一審被告白石が意図したことではないから、そのような事態の発生を効果審査における「一般人に与える効果、影響」として斟酌することは相当でなく、また一審被告白石に法的責任を負わせる根拠にもならず、せいぜい、政治的問題として選挙でその当否を問題とすれば足りる、という趣旨に理解して間違いないと思われる。
右判示は以下に述べるような憲法解釈の誤りをおかしている。
(1) 第一の誤りは、右判示は、本件各支出が合憲である、との前提にたって初めていえることにすぎず、結論を先取りした判示であって、効果審査の名に値しないという点である。たしかに、合憲の国家行為について、どんな批判的世論がまきおころうと合憲のものは合憲である。原判決はその当然至極の理をいうだけのことで、効果審査の判示としてはまったく無意味である。すなわち、「一般人に与える効果、影響」は効果審査のひとつの要素であって、効果審査(さらに目的審査)を経て初めて合憲か違憲かの結論を導くことができるはずである。ところが原判決は、本件各支出が広く一般に明らかとなったことによって社会的にどのような影響をもたらしたか、という要素を、一審被告白石が意図したところでない、との一点をもって、一切、考慮しないというのである。これでは原判決の「目的効果基準」のなかで、何のために「一般人に与える効果、影響」という要素があり、何のために「効果審査」があるのかを問わなければならない。かかる論法は「はじめに合憲ありき」としてのみ理解可能であって、目的効果基準は単なる文章上の粉飾として利用されているに過ぎない。
(2) 第二の誤りは、「何らかの世論の形成」は「一審被告白石の意思、目的とは直接の関係がない」とは到底、いえないことである。前述のとおり、「宣伝活動」、「事実上の影響力」を与える行為として数々の機会、手段を用いているのであって(第二―二―4)、一般の宗教的関心の喚起をまさしく一審被告白石が意図、目的としたと評価するしかないはずである。
(二) 原判決は「一般人に与える効果、影響」として(一)に引き続いて次のように判示する。
「一審被告白石の玉串料等の支出につき、それがやがて靖国神社を第二次大戦と同様の法的地位、法律関係に復活し侵略戦争を起こすことに繋がると一般国民に思わせる行為であると考えたり、靖国神社ばかりでなく全国にある護国神社への公金の支出を助長し又は一般国民による特定宗教である神社神道の気風を呼び起こしてそれを助長し又は精神的な援助をすることになると考えるのは、全く根拠に乏しい杞憂にすぎない議論であり、本件玉串料等の支出がそのような結果をまねくとは考え難い。……憲法九条の侵略戦争の禁止による我が国の平和は、既に国際社会において公認されており、将来においても国民の努力により維持されなければならないが、その法的関係は、一審被告白石の本件玉串料等の支出によっては影響を受けるものではない。」(三六丁裏〜三七丁表)
(1) かように原判決は効果審査の最も肝心な部分に至って、何らの論証抜きで突然、「全く根拠に乏しい杞憂にすぎない」との結論を宣言するに至る。前述した効果審査のために用意された最高裁のいろいろな視点からの検討はどこにもみあたらない。そして、ここでも上告人らの本人尋問のなかにある供述の一部分をことさらにとりあげ、「一審被告白石の玉串料等の支出につき、それがやがて靖国神社を第二次大戦と同様の法的地位、法律関係に復活し侵略戦争を起こすことに繋がると一般国民に思わせる行為である」として、上告人が効果審査において主張したことがない事実を主張したかのようにとりあげ、それに対して「憲法九条の侵略戦争の禁止による我が国の平和」などと、いわずもがなの第九条論を展開したあと、またしても「その法的関係は……影響を受けるものでない」と、意味不明の判示をするが、その論旨はかなり政治的、確信的である。原判決は政教分離規定の歴史的意義について全く判示することなく、目的効果基準の解釈、適用にあっては、法律万能主義と極端な司法消極主義、立憲主義的感覚の欠如を露呈するが、この判示部分の政治的、確信的な論旨とは表裏一体である。
(2) 原判決は、「靖国神社ばかりでなく全国にある護国神社への公金の支出を助長し又は一般国民による特定宗教である神社神道の気風を呼び起こしてそれを助長し又は精神的な援助をすることになると考えるのは、全く根拠に乏しい杞憂にすぎない」とするのであるが、何の論拠も示すことなく右のような重要な問題を断定することは著しい理由不備であり、原審裁判官の裁判をする姿勢そのものに関わる問題として、厳しく批判されなければならない。
本件玉串料等の支出が原判決のいうように、「国家機関の一部の者」の行為として憲法の禁じる「国家による『宗教的活動』と評価される法的根拠は存在しない」とされた場合、「靖国神社ばかりでなく全国にある護国神社への公金の支出を助長」することがないとか、「特定宗教である神社神道の気風を呼び起こしてそれを助長し又は精神的な援助」をしないですむと考えるのは、常識的な洞察を欠くものである。たしかに現行憲法によって戦前の国家神道体制のもとで靖国神社、護国神社が有していた「法的地位」、「法律関係」は消滅した。しかし、国家神道「体制」、「法的地位」、「法律関係」は消滅したとはいえ、国家神道の宗教的基盤は靖国神社、護国神社によって不変に維持、継承されており、それを支える宗教的心情も根強く残っている。だからこそ、靖国神社国家護持運動は法案となって国会にまで持ち込まれたし、靖国神社公式参拝の要求は絶えず政府に向けられ、政府もその圧力を受けて、従来の公式見解を修正してまで公式参拝に踏み切ったのである。本件各支出が合憲とされるならば、靖国神社、護国神社の恒例祭に対する玉串料等の支出を公的機関に要求する社会的圧力は強まり、「零細な額」で「一般人と同程度」の「社会的な儀礼の程度」(三八丁裏)の支出すらしないことは、逆に公的機関として社会的儀礼を欠くこととして公金の支出が助長、拡大され、あわせて、靖国神社、護国神社の祭神に対しては個人の宗教的信条のいかんにかかわらず敬意を払うことが当然であるとの気風を呼び起こすに至ることは、「杞憂」どころか、必然的な事態である。
三 憲法八九条違反
1 原判決は、憲法八九条で禁止する国家機関による宗教上の組織もしくは団体の「維持」のための公金支出に当たるかどうかの判断基準は、憲法二〇条三項の禁止する国家機関による宗教活動に当たるかどうかの判断基準と同一である、とする(三九丁表、裏)。
しかし、同条は「使用、便益もしくは維持」を規定するのであり、それぞれの意義や適用の要件も異なるべきもので、上告人らは「使用、便益もしくは維持」のいずれかに該当するものとして憲法八九条違反を主張してきた。しかるに原判決はことさら上告人の主張を「維持」に限定して摘示する点で弁論主義違反の違法を侵している。
2 原判決は憲法八九条違反の場合を特に「維持」に限定したうえで、一審被告白石のした程度の回数、金額では「第二次大戦中のような靖国神社等に対し行政庁の一機関として予算を配付して国家財政による支出したことと同視できる場合に当たらない」とする。この判示も、原判決の基調をなす第二次大戦中と同一の「法的地位」、「法律関係」に復活させるような行為にしてはじめて政教分離規定に違反するという独自の立論を前提とするもので、その解釈の誤りはすでに指摘したとおりである。
3 さらに原判決は本件各支出対象行事である恒例祭に寄せられる玉串料等の全体に占める割合を問題とし、本件各支出の占める割合は「零細」だとする。しかし、本件では一回限りの支出でなく、一九五八年(昭和三三)から一九八六年(昭和六〇)まで、毎年、恒例祭のたびに支出されてきたのであり、本件各支出の合計額は決して少額とはいえず、過去からの継続的支出を合計すれば相当の多額となり、「使用、便益もしくは維持」になるといえるものである。
四 小括
1 以上により原判決が「目的効果基準」の名のもとに独特、異様な憲法解釈を採用していることを明らかにした。問題点として指摘した判示部分は憲法解釈の誤りを示すものであると同時に、ほとんどが理由不備、理由齟齬の違法を示すものであり、また、経験則・採証法則違反の違法にわたる点にも触れた。
原判決の論旨は極端な見解が多いうえ、論理の脈絡も混迷し、判示の真意を理解するのに困難な箇所も少なくない。しかし、明確に読み取れるのは、原判決の基調をなす、憲法適合性をめぐる司法審査のあり方に対する極端な消極主義である。それは、もはや立憲主義の観念の欠如に至っているといってよい。前述のとおり、違憲的意図をもった国家行為は法的に不可能な意図である、との趣旨を判示してみたり、靖国神社国家護持法案が頓挫している国会の状況下では、「国家機関の一部の者」が第二次大戦中と同一の法的地位、法律関係に靖国神社等を復活させる目的で玉串料等を支出しても、憲法の禁止する国家機関による「宗教的活動」と評価される法的な根拠は存在しない、と判示するところは、あたかも国家機関は違憲的事態をひきおこすはずがなく、単に憲法の条文が存在するだけで憲法違反の事態は防止できるという、国家機関の憲法に対する善意を限りなく信頼しようとする非立憲的国家観、さらに違憲的事態かどうかは選挙を通じて国家が最終的に判定すればよく、司法裁判所が違憲的事態を宣言することは可能な限り避けるとの極端な消極主義的違憲審査観が明確に吐露された、代表的な判示部分である。かような判示にみられる論理は憲法解釈の基本をなす立憲主義の理解を完全に欠いたものとして厳しく批判されなければならない。
2 また、原判決が独特、異様な憲法解釈を採用したことは弁論主義違反の項で述べるところでも明らかである。原判決は上告人が主張していない事実を創作し、あたかも第二次大戦中のような「法律関係」、「法的地位」に靖国神社、護国神社を復活させるような意図ないし効果が本件にあったとの主張を前提として判示する。かような事実摘示を原判決が敢えてした真意がどこにあったのかを考えると、原判決は上告人らが最高裁の提示した目的効果基準として主張する内容をすべて「主張自体、失当」とみなし、第二次大戦中のような法律関係、法的地位に靖国神社、護国神社を復活させるような意図及び効果が認められないかぎり、違憲とならないというのが「目的効果基準」であるとの解釈を施し、その前提で判示したものと思われる。この点からみても、原判決の憲法解釈の誤りが明らかなのである。
3 裁判の正統性を支えるものは事実と論理である。もとより法解釈には不可避的に解釈者の主体的価値判断が混入する。それを隠す必要はないし、それが法解釈のひとつの側面でもある。しかし、他面、解釈者の価値判断はそれを支える事実と論理とによって客観性が確保されるのであって、具体的事案における事実と法の要請する論理が裁判官の主観的価値判断と反する場合、裁判官は法の命ずるところに従って、結論を導かなければならない。それが憲法でいう裁判官の「良心」(七六条三項)であった。
原判決は、当事者の主張に虚心に耳を傾け、その趣旨にそって主張を整理し、主張に対して正面から判断するという最低限の誠実さすらなく、およそ憲法論としてこれまで学者にせよ、判例にせよ、だれも主張したことがないような見解を上告人らの主張としてことさらにねじ曲げてとりあげ、その主張に対して、これまた目的効果基準に名をかりた珍無類の政教分離原則の理解を披瀝したうえで合憲の結論を導いた。その珍無類の政教分離原則の理解を前提としてすら証拠の評価は著しく独断的である。原判決が破棄されるべきことは当然であり、しかも速やかにかつ徹底的に破棄されることが、わが国の憲法訴訟の名誉のために必要である。
第三 理由不備、理由齟齬(上告理由第二点)
一 原判決には、以下に述べる理由不備及び理由齟齬(民訴法三九五条一項六号)があるので、当然に破棄されるべきである。
二 二〇条一項後段
1 一審原告らの主張
一審原告らが、本件各支出は宗教団体が県から特権を受けた場合に該るとして、憲法二〇条一項後段違反の主張をしている(第一審第一四(最終)準備書面第三「本件公金支出の違憲性」三「本件支出の違憲性」1〜3項、原審準備書面(五)、一八一頁)ことは記録上明らかである。
2 原判決
ところが、原判決は、その事実摘示において一審原告らの右主張を全く摘示せず、その理由中でもこの点について一切触れていない。
3 よって、原判決の理由不備は明白である。
三 信教の自由
1 原判決
原判決は、「信教の自由は、もともと、自然人が生まれながらにして有している侵されることのない天賦の人権であり、人類普遍の原理である。その信教の自由を享受する主体は個々の国民であり、自然人である。」(二七丁表)と判示しているが、右判示は、原審裁判官の信教の自由についての無理解を象徴的に示すもので、お粗末という外ない。
2 その誤り
(一) 原審裁判官は、信教の自由が宗教の自由と同義であることさえ知らないで、「信教」→「内面」→「自然人」と短絡させたものと思われる。
(二) 信教(宗教)の自由は、通常次の四つに大別して説明され、憲法のどの教科書にも同様の記載がされている。
a 任意の宗教を選択し、または変更すること、及びいかなる宗教をも持たないことの自由を内容とする「内面における信仰の自由」。
b 信仰を外部に向って表現し、宣伝し、教育する自由を内容とする「信仰告白の自由」。
c 礼拝・祈祷・儀式・祝典等を行なったり、それに参加し、又はしない自由を内容とする「宗教上の行為の自由」。
d 宗教上の目的を達する為に団体を組織する自由を内容とする「宗教上の結社の自由」。
(三) 原審裁判官は、信教の自由は右a〜dの内aだけであると曲解し、信教の自由の主体は自然人であると判示したもので、憲法の教科書に書かれている基本的な事柄さえ理解していないことが明らかである。
(四) 宗教法人法一条二項は、信教の自由の保障が自然人(個人)のみならず「集団又は団体」にも及ぶことを明記しているが、原審裁判官は宗教法人法さえ見ていないと思われる。
(五) 原審裁判官の理解によれば、自然人でない例えば宗教法人は信教の自由の主体となりえず、従って、宗教法人の活動を制約することも可能ということになってしまうが、そのような馬鹿げた話はない。
(六) 現に、殉職自衛官合祀事件最高裁判決は、「合祀は神社の自主的な判断に基づいて決められることがらであり」「県護国神社による孝文の合祀はまさしく信教の自由により保護されているところとして同神社が自由になし得るところであり、それ自体は何人の法的利益をも侵害するものではない」と判示して、宗教法人の信教の自由を認めているが、原審裁判官は、この判決さえ知らないと思われるのである。
3 右に述べたように、信教の自由についての原判決の誤りは一見して明らかであり、このようにお粗末な理解を前提とする原判決は、理由不備、理由齟齬としても当然に破棄されるべきである。
四 国家機関の畏敬崇拝
1 原判決
原判決は、「憲法二〇条一項は、このような自然人の有する信教の自由を国家機関による侵害から保障するもので、国家機関自体は、同条による保障の対象ではなく、国家機関自体が信教の自由を有することを規定したものではないし、国民に対しそれを遵守すべき側の立場にあり、自然人としての心の在り方の処理に関することのない国家機関が自然人と同様に信教の一つである神道の祭神を畏敬崇拝するということは、現行憲法の解釈としてはあり得ない法概念である。従って、本件において、一審被告白石が愛媛県を代表し、すなわち愛媛県自体が後記認定の第二次大戦中に国家機関がした行為と同様に、靖国神社、護国神社に対し、その祭神を畏敬崇拝する目的で玉串料等を支出したという一審原告らの主張は、その余の点につき判断するまでもなく、理由がない。」(二七丁表〜裏)と判示する。
2 その支離滅裂
(一) 右判示の第一文は、「国家機関が…神道の祭神を畏敬崇拝するということは、現行憲法の解釈としてはあり得ない法概念である。」という部分にどうやら意味があるようである。
(一) しかし乍ら、右につながる「憲法二〇条一項は、…国民に対しそれを遵守すべき側の立場にあり」という部分は、前述の「自然人」の誤りを除けば、至極当然の初歩的な言わずもがなの記述であって、「現行憲法の解釈としてはあり得ない法概念である」などと結論づける理由とはおよそなり得ないものである。
(三) 原判決が殊更に信教の自由の主体を「自然人」であるとし、「国家機関が自然人と同様に信教の一つである神道の祭神を畏敬崇拝するということは、…あり得ない法概念である。」としていることから推測すると、自然人のような内面を持たない国家機関については「信教」というようなことは考えられず、従って国家機関が「畏敬崇拝するということは」「あり得ない法概念である」と言っているとも考えられる。しかし、本件において白石がそうであるように、自然人が国家機関としての役割を果たすのであるから、国家機関であるというだけの理由で、その内面が問題とならないなどと言うことはできない筈である。現に、原判決も、第二次大戦中は「国家機関自体も自然人と同様に、その祭神を畏敬崇拝した」(三一丁表)と明言しているのであるから、自然人でないという理由で国家機関が畏敬崇拝するということはあり得ないと言っている訳ではないようである。
(四) 原判決を善解するならば、現行憲法が信教の自由を保障し、国家機関が信教の自由を侵害することを禁止した結果、国家機関は、「自然人としての心の在り方の処理に関すること」がなくなったので、「現行憲法の解釈としてはあり得ない法概念である」ということなのかも知れない。しかし、これでは、「罰則ができたら犯罪は発生しない」と言うに等しく、憲法八一条の違憲立法審査権の規定などは全く必要のない規定ということになってしまうであろう。
(五) 右判示の第二文で、原判決は「本件において、一審被告白石が愛媛県を代表し、すなわち愛媛県自体が後記認定の第二次大戦中に国家機関がした行為と同様に、靖国神社、護国神社に対し、その祭神を畏敬崇拝する目的で玉串料等を支出したという一審原告らの主張」などと書いているが、一審原告らがこのような主張をしていない事実は、一件記録上明白である。詳細は第四項に譲るが原判決の弁論主義違反と一審原告らの主張の歪曲には憤りを通り越して目を覆いたくなるものがある。一審原告らの主張は、白石が、知事として玉串料等を公金から支出したことが憲法の定める政教分離原則に違反するとするもので、「第二次大戦中に国家機関がした行為と同様に」とも、「愛媛県自体が……その祭神を畏敬崇拝する目的で玉串料等を支出した」とも一言も言っていない。
(六) 結局のところ、右判示は、憲法二〇条一項が自然人に信教の自由を保障したから、「国家機関が自然人と同様に信教の一つである神道の祭神を畏敬崇拝するということは、現行憲法の解釈としてはあり得ない法概念である。従って、……一審原告らの主張は、その余の点につき判断するまでもなく、理由がない。」とする「結論先にありき」の救いようのない支離滅裂判決であって、そこには憲法の政教分離原則についての理解は一カケラもなく、理由不備及び理由齟齬の違法が歴然としている。
五 信教に関する事項の処理
1 原判決
原判決は、「国民が自然人として行う信教自体ばかりでなく、自然人の行う宗教行為に関してその場所を提供し各信教の内容を教え導くなどの宗教的活動を行う宗教法人等に関し、国家機関である立法、司法、行政の各機関が信教に関する事項を取り扱うことは国民の政府である以上当然の事理である。従って、国家機関の行為として全く信教に関する事項の処理を禁止するかの如き所論は、憲法二〇条が無宗教の者の信教の自由のみを保障し、信教の自由に関する人権の保障を無視する結果を招く議論であって理由がなく、他方、その関わり合いの目的、方法、程度等に関しては憲法二〇条三項による制限がある。」(二七丁裏〜)などと判示している。
2 その無内容
(一) 国家機関である立法、司法、行政の各機関が信教に関する事項を取り扱い処理することを「全く……禁止する」ような議論を聞いたこともないし、一審原告らがそのような主張をした覚えもない。現に、一審原告らは、「信教に関する」本件各支出について、愛媛県の監査委員に対して住民監査請求をした上、裁判所に提訴して係争中なのである。
(二) 主張もしていないのに、「国家機関の行為として全く信教に関する事項の処理を禁止するかの如き所論は、憲法二〇条が無宗教の者の信教の自由のみを保障し、信教の自由に関する人権の保障を無視する結果を招く議論であって理由がなく」と言われても、返す言葉がなく、言い掛かり以上の一審原告らに対する敵意さえ感じられる。
(三) 憲法二〇条三項は、「宗教教育その他いかなる宗教的活動」を禁じたものであるから、信教に関する事項の取扱や処理を禁じたものでないことは自明の理であるが、こんな単純なことさえ、原審裁判官は理解していないのである。
(四) 右判示からも、原審裁判官は、政教分離原則について基本的な理解を欠き、本件訴訟で国家機関の「宗教的活動」が問題になっていることすら充分認識していないことが明らかであって、その無内容さは顕著である。この点においても、原判決の理由不備及び理由齟齬は明白であって、到底破棄を免れない。
六 第二次大戦中
1 原判決
原判決は、その事実摘示において、一審原告らの主張として、
「一審被告白石は、愛媛県知事の立場で、第二次大戦中と同様に、靖国神社等の祭神に対する畏敬崇拝として、玉串料等を支出したものであり」(一一丁表)
「靖国神社等に対する玉串料についての一般的な宗教的意識は、現在においても第二次大戦中と全く同一であり、差異がない。」(一二丁裏)
「一審被告白石の玉串料等支出の意図、目的は、靖国神社等につき、第二次大戦中と全く同一の法的地位、法律関係を復活することにあり」(一四丁裏)
「一審被告白石の宗教的意識は、第二次大戦中の地方長官と全く同様に、国家神道をそのまま継続して信仰し」(一五丁)
「そのような神道の援助、助長、促進はやがて第二次大戦のような侵略戦争を起こす虞れがあると、一般人は考えているというべきである。」(一六丁表)
「一般人に、国家機関が靖国神社等を第二次大戦中と同様に国教的に援助しているものと思わせ」(一六丁裏)
などとした上で、
判決理由の冒頭で、
「一審被告白石が愛媛県知事として靖国神社等に対し玉串料等として支出した行為につき、我が国が第二次大戦中に採った靖国神社等に対する措置に対比して観ると、それと同様の行為ないしその虞れのある国家機関による宗教的活動に当たり、憲法二〇条三項に違反する旨の一審原告ら主張について検討する。」(二六丁裏)
などとしている。
2 その荒唐無稽
(一) しかし、一審原告らがこのような主張をしていないことは一件記録上明白である。
(二) 原判決は、一審原告らの主張をこのように歪曲した上で、第二次大戦中とは異なるという単純明解かつ至極当然な理由で一審原告らの主張を排斥しているのであるから、その姿勢は、極めて意図的かつ悪質であって、全く論評に値しない。
(三) 原判決が、「終戦後長年にわたる国民の努力により築き上げた憲法九条の侵略戦争の廃止による我が国の平和は、既に国際社会において公認されており、将来においても国民の努力により維持されなければならないが、その法的関係は、一審被告白石の本件の玉串料等の支出によっては影響を受けるものではない。」(三六丁裏〜)としていることからも明らかなように、原判決は、第二次大戦中と同様の事態を招来するものでなければ政教分離原則に違反しないとするものであって、これでは「末期ガンでなければガンではない」というに等しい。
(四) 原判決の随所に散見されるところであるが、原審裁判官は、法律家であることを忘れ、政治家のような目でしか本件訴訟を見ていないのではなかろうか。
(五) いずれにしても、原判決は、政教分離原則について、憲法解釈や憲法判断を怠った、信じられない程に荒唐無稽な判決であって、理由不備、理由齟齬の違法は明白である。
七 八九条の判断
1 原判決
原判決は、その事実摘示において、一審原告らの主張として、
「一審被告白石の玉串料等の支出は、前記各諸事情によると、憲法八九条の禁止する「宗教上の組織若しくは団体の維持のため」の公金の支出に当たり、同条違反として無効である。同条違反の判断基準も又前記憲法二〇条三項の判断基準に準じて判断すべきものである。」(一七丁表)などとした上、
その理由中において、
「憲法八九条で禁止する国家機関による宗教上の組織若しくは団体の維持のための公金の支出に当たるかどうかの判断基準は、その支出行為につき前記憲法二〇条三項の禁止する国家機関による宗教活動に当たるかどうかの判断基準と同一の基準により判断するのが相当である。」(三九丁表〜)として、支出金額等の零細性故に「維持」に当たるような経済援助とはならず、八九条にも違反しない旨判示している。
2 その歪曲
(一) 一審原告らが、八九条の規定する「使用、便益若しくは維持」の内、「維持」だけに主張を限定した事実はなく、又、八九条の判断基準も二〇条三項の判断基準に準じて判断すべきであるなどと主張した事実もない。
(二) 原審裁判官が、どうしてこのように一審原告らの主張を歪曲して自分の土俵に乗せようとするのか不思議でならないが、その姿勢には、裁判官としての資質に素朴な疑問を感じさせるに足るだけの偏向が顕著であると同時に、自らの結論を正当化しようとする態度が歴然としている。
3 その不当
(一) 本件は、玉串料等として支出した公金を、靖国神社等が使用し、例大祭等の便益に供した事案であるから、当然に、「使用」「便益」も問題にしなければならないケースである。ところが、原判決は、「使用」「便益」を問題とした場合には金額の多寡で逃げることができなくなってしまう為に、意識的に「維持」だけを取り上げて、本件支出は「維持」にあたるような経済援助ではないとしたものであって、不当極りない。
(二) 二〇条の外に更に憲法八九条が設けられたのは、財政の面から見て、公金その他の公の財産の支出または利用を禁止することによって、厳格に政教の分離を貫いたものとされており、右禁止に違反する例として、一般の憲法の教科書では、靖国神社や伊勢神宮への公金の支出が挙げられている。政教分離という同じ目的の為の規定とはいえ、二〇条三項は宗教的活動を、八九条は公金の支出等を禁止した規定であるから、当然にその要件や判断基準も異なったものとなることは自明の理である。原判決の論理によれば、八九条は本来無用の規定ということになろうが、そのような不当な解釈は許されない。
(三) 結局のところ、原判決は、「使用」「便益」について意識的に判断せず、又、同一の判断基準によるとして八九条についての判断を回避したものであるから、理由不備及び理由齟齬の違法は明らかである。
八 法律違反による責任
1 原判決
原判決は、その事実摘示において、一審原告らの主張として、
「一審被告白石らの玉串料等の支出が憲法に違反しないとしても、その公金を支出すべき実定法上の根拠がなく、違法な公金の支出である」(一七丁表)などとした上、
その理由中において、四〇丁裏から判断を加えて、その結論として、
「従って、一審被告白石の玉串料等支出が実定法上の根拠がない旨の一審原告らの主張は理由がない。」(四三丁表)などと判示している。
2 その不明
(一) 一審原告らが右のような主張をしていないことは一件記録上明白である。原審裁判官が、何故右のような事実摘示をし、それ程分量のない判決理由でかなりのスペースを割いてまで判断を加えたのか全く不明であり、見当もつかない。
(二) 右判示部分は、明らかに一審原告らの主張を取り違えた上での判断であって、肝心の一審原告らの主張が判断されていないと推認するに充分である。この点においても、原判決の理由不備、理由齟齬の違法は明らかである。
九 一般人の宗教的評価
1 原判決
原判決は、
「玉串料等支出自体についての一般人の宗教的評価(それによる教育をしたものではないから、主として財政上の支出の点について検討する。)は、愛媛県知事であった一審被告白石が奉納したからといって、神社が宗教儀式等について特別の取扱をしたものではなく(原審証人正岡定幸の証言)、その申込方法も一般と同一であるところから、愛媛県知事による支出も特別に靖国神社等と密接な関係を持つものとは認識していない。また、靖国神社等に賽銭による参拝ではなくそれより少し改まった形式である玉串料等を奉納しようとする一般人の意識は、特に神道の奥義を究めこれに従う者としてではなく、それらに合祀されている遺族、知人等の慰霊のほか個人的な願い事の成就が目的であって、それは神道の教義に則り靖国神社等の祭神に対する畏敬崇拝の意思を表明することとは程遠い俗事であり、多くの場合神社側が玉串料等を定めた目的、宗教行事としての本来の意味と完全に一致するものとはいえないが、靖国神社等でもその目的に沿うかどうかの個別的審査はしないし、それに沿わないからといってそのための金員を受け付けないわけではない。」(三〇丁表、裏)と判示している。
2 その誤り
(一) 本件玉串料等の支出は、いずれも、靖国神社等からの特別の要請に応答してなされたものであるから、神社が知事を特別扱いしたものであるし、又、申込方法も一般とは明らかに異なっている。証拠上明白なこのような事実まで誤認した上での判断は、明らかに理由不備であり、理由齟齬である。
(二) 又、原判決は、「当該行為に対する一般人の宗教的評価」を判断基準に掲げながら、白石の玉串料等支出に対する一般人の宗教的評価ではなく、一般人が玉串料等を奉納する際の意識を問題にするという論理矛盾を犯している。この点についても理由不備、理由齟齬のそしりを免れない。
一〇 「法的に不可能な意図、目的」
1 原判決
原判決は、「戦後においても、昭和四二年ころから国家護持運動者らの団体が中心となり、何度となく国会に対し、靖国神社等を第二次対戦中の法的地位、法律関係に復活することの立法を請願した結果、昭和四四年六月三〇日基本的に右要望を相当取り入れた靖国神社法案(議員提出案)が国会に提出され審議されたが、同年八月五日の会期終了とともに成立せず廃案となり、その後さらに二度にわたり、各一部修正の上、国会に法律案が提出され審議されたが、昭和四六年五月までにいずれも廃案となり、国権の最高機関である国会の意思決定が右のとおりであって、現在ではそれが国民の大多数の意思であるとして確定されている。従って、たとえ国家機関の一部の者がその意図又は目的で玉串料等を支出した場合でも、法的に不可能な意図、目的となるからその点では、その目的による行為が憲法二〇条三項の禁止する国家機関による「宗教的活動」であると評価される法的な根拠は存在しないといえる。」(三二丁表、裏)とか、「第二次大戦中の靖国神社等は国家行政組織の一部であり神職に携わるものが官公吏でその任免権を国家が有し、国家予算の中からその維持管理費用を支出していたが、終戦後の憲法の基本的大改正に従い、靖国神社等のそのような法的地位、法律関係が全て消滅し、その後国家護持運動者らが靖国神社の法的地位、法律関係につき第二次大戦中と同様な法的地位、法律関係の復活を求める請願をし、その要望をかなり取り入れた靖国神社法案が昭和四四年六月から昭和四六年五月までの間三度にわたり国会に提出され審議されたがいずれも廃案となり、国民の大多数の意思が、そのような法的地位、法律関係を望まないものとして確定され、従って又、この点から考えても、一審被告白石の意図がこのような靖国神社等の第二次大戦中と同一の法的地位、法律関係の復活を目的としてしたものとはいえず、」(三七丁裏〜)とか判示している。
2 その誤り
(一) 靖国神社法案の廃案が、どのような理由や証拠によって「国民の大多数の意思であるとして確定している」という認定につながるのか全く不明である。
(二) 仮にそれを措くとしても、どうして、「たとえ国家機関の一部の者がその意図又は目的で玉串料等を支出した場合でも、法的に不可能な意図、目的となるから、その点では、その目的による行為が憲法二〇条三項の禁止する国家機関による「宗教的活動」であると評価される法的な根拠は存在しないといえる。」などと言えるのか。「国家機関の一部の者がその意図又は目的で玉串料等を支出した場合」には、どのような立場をとっても、直ちに「憲法二〇条三項の禁止する国家機関による宗教的活動」と評価される筈である。
(三) 又、仮に大多数の意思が確定しているとして、どうして、白石の意図が「第二次大戦中と同一の法的地位、法律関係の復活を目的としてしたものとはいえず」などと言えるのか。大多数の意思がどうであれ、そのような意図、目的を持つことは充分考えられることであるし、現に白石は、そのように発言し、他県が中止しても支出を強行したのである。
(四) 原判決の右判示には、非論理性と政治性が顕著であると同時に、前述の「末期ガンでなければガンではない」という性向が露骨にあらわれている。仮に「第二次大戦中と同一の法的地位、法律関係の復活を目的とした」ものでない場合であっても、憲法の禁止した宗教的活動に該ると判断されるべきであるが、原判決は、右の意図・目的を要件とし、あまつさえ、そのような意図・目的を持ったとしても「法的に不可能」だから「宗教的活動」にあたらないとするもので、原判決の「論理」に従えば、憲法二〇条三項の禁止する「宗教的活動」などはあり得ないことになってしまうであろう。
(五) このような珍妙な判決が判決理由として是認される余地はないと言って過言でない。
一一 結び付きの象徴
原判決は、「一般に、玉串料の性質が神官を通じて神に奏上する方法であり、神殿の前で参拝し自由に行う賽銭に比較すると、それが宗教儀式の一部で、寄進ないし寄付の方法から観ると、より深い神道上の儀式であることは、何ら国政と靖国神社との結び付きを象徴するものでもない。」(三二丁裏)などというが、全く論理性がない。より深い神道上の儀式であれば結び付きを強める方向に判断が傾く筈であるが、原判決は、右のように、何らの理由を付することなく、結び付きを象徴するものでないと結論付けてしまっているのである。
一二 政治活動としての支出
1 原判決
原判決は、「一審被告白石の支出の意図、目的は、同人が個人的に県遺族会の会長で、その団体が同人を知事に選出した有力な政治的な支持団体の一つであって、その団体から靖国神社等に合祀されている第二次大戦中の戦没者の慰霊(靖国神社の春、秋の例大祭、夏のみたま祭、護国神社の春、秋の慰霊大祭はいずれも慰霊を主目的とする。)として玉串料等(その名目は玉串料のほか、献灯料、供物料)を支出して欲しい旨の要請に答え、遺族援護行政(それは後記のように国の委任事務及び固有事務としての福祉行政の両面を有し、いずれの意味でも、「国及びその機関」の行為に当たる。)を利用して、その趣旨の政治活動として行ったものである。」(三二丁裏〜)とか、「一審被告白石の宗教的意識は一般人が他の神社に対し支出するのと同程度の個人的な祈願すなわち主として次期の愛媛県知事への再当選を祈願するのにすぎず、それ以上に神道の深い宗教心に基づくものではなく、」(三八丁表)とか認定している。
2 そのお粗末
(一) 原判決は、このように、政治活動としての再当選祈願の為の支出であると認定しているが、そうであれば、公金の不正使用ではないのか。
(二) 少なくとも、本件各支出の正当性や憲法適合性を付与するような意図、目的、意識ではない筈で、本件各支出の宗教性を減殺するものではなく、当然に違憲判断につながる筈であるのに逆の結論に導いている。
(三) 原判決は、第二次大戦中への復活を意図、目的とするか(しかし、原判決はこれも不可能であるとする)、あるいは「深い宗教心に基づく」場合でなければ、憲法二〇条三項の禁じた「宗教的活動」に該らないとするのであるが、余りにもお粗末な憲法論という外なく、理由不備、理由齟齬の違法はここにも顕著である。
一三 白石の行政実績等
原判決は、「一審被告白石の長年にわたり愛媛県知事として行った数々の政治活動、県民のためにした行政実績等をも合わせ考慮すると、一審被告白石が第二次大戦中と同様の法律関係、法的地位の靖国神社等の復活を意図ないし目的として行ったものとはいえない。」(三三丁表)などと判示するが、どのような政治活動や行政実績をどのような証拠によって認定し、その結果、どうしてこのような結論に至るのか全く不明であって、理由不備及び理由齟齬は明らかである。
一四 「影響力は微小」
右判示部分に続いて、原判決は、「一歩譲って一審被告白石が内心の意思においてそれを意図したとしても、広く一般国民に対しその意図で玉串料等の支出を勧めるなどの自らによる宣伝活動のなかった本件においては、一般に一審被告白石が靖国神社等の例大祭等でその玉串料等を支出したことの内心の意思を知る機会に乏しく、実際にその気風を呼び起こしたものでもなく、事実上の影響力は微小である。」(三三丁表、裏)などと判示しているが、白石が内心の意思において第二次大戦中と同様の法律関係等の復活を意図して本件各支出を行なったとすれば、明らかに憲法違反であって、「自らによる宣伝活動」の有無や「事実上の影響力が微小」であるか否かには全く無関係である。これを看過した原審の誤りは重大であって、理由不備及び理由齟齬ははなはだしい。
一五 慰霊
原判決は、「その慰霊(その説明方法が、死者は神となるから招魂の儀式を経て祭神として合祀しこれを畏敬崇拝するといっても、それは神道上の定義にすぎず、宗教全般を通じて観た場合、それは概念上の差異にすぎず、死者の鎮魂を主な目的とする点で、慰霊、鎮魂、その他の名目で死者の平安等を願う宗教行事と変わりがなく、一般人が神道上の慰霊とその他の宗教による追悼、鎮魂等との区別を意識しているものとは考え難い。甲第七二号証)について、国家護持運動者らが軍人の生前の功績を顕彰するといっても精神的にそれを支える社会的な要請がないから、一般人がそれを受容するものとはいえず、物資的にも何らの報いのない言語だけのものでその実体がない。かえって、靖国神社等の例大祭、みたま祭、護国神社の慰霊大祭の際の慰霊に対する一般人(但し、無宗教者を除く。)の意識は、そのような第二次大戦中の靖国神社等の法的地位、法律関係への復活を願うものではなく、戦没者の家族、知人等を含む大多数の者の慰霊の真の目的が、その折に、戦没者が家族、知人等の社会の一員であった生前を偲び追悼することと、再び多数の戦没者を出すような侵略戦争の過ちを犯さないという誓いにより戦没者の鎮魂を祈ることに主眼があることを是認し、それを見守るけれどもこれに積極的には参加しないだけのことである。」(三三丁裏〜)などと判示しているが、これば、何らの証拠に基かない認定によって原審裁判官の思想を披瀝し、その結果、宗教についての無知と無関係を露呈しただけのことで、靖国神社等の教義や祭典さえも否定した全く理由にならない判示である。
一六 千鳥ヶ淵戦没者墓苑等
原判決は、「東京都の千鳥ヶ淵戦没者墓苑、広島市の平和都市記念碑などの全国の被災都市にある同種施設による戦争記念日の行事なども、それが軍人ではなく一般市民の戦争犠牲者を主な対象とする点で靖国神社等と差異があるが、靖国神社等における第二次大戦中の軍人等の慰霊、追悼と同様に、戦争犠牲者の慰霊、追悼を一つの目的としている点では同一であり、それらの行事は既成の特定宗教には属さないけれども一つの新たな宗教集団(無宗教者はこのような慰霊、追悼の思想を排斥するからそれらの者によるものではない。)による宗教行事であることは否定できず、それらについて公費の支出、花輪等の献上等がされている」(三四丁裏〜)などと判示しているが、これは、大江証人の証言等を完全に無視して、宗教施設である靖国神社等で行なわれる宗教行事と、墓地・納骨施設である千鳥ヶ淵等で行なわれる非宗教行事とを混同した暴論であって、原審裁判官らの無理解の一つの極致である(尚、無宗教者についての記述は偏見に基く独断にすぎない)。このような理解で本件各支出の宗教性が否定されるのであれば、二〇条三項の「宗教的活動」などおよそあり得ないことになってしまうであろう。
一七 他の宗教
原判決は、「一審被告白石の玉串料等の支出は、他の宗教である仏教(原審における一審原告安西賢二本人尋問の結果)、キリスト教(同戸田義雄本人尋問の結果)を圧迫、干渉等するものであるとの考えは、いずれも、各宗教による死者に対する宗教上の取扱の差異、すなわち、それを慰霊ではなく追悼(仏教)と考えるとか、神キリストの子として天に召されたと考えるなどという宗教自体の教義に関する問題を根拠とするものであって、そのこと自体は司法審査の対象となるものではなく、そのような考察方法は、前記説示のようなそれが国家機関として禁止される宗教的活動かどうかという法的視点に欠ける考察であり、相当ではない。」(三五丁表、裏)などというが、一審原告らの指摘は、玉串料等の支出が神道固有の教義に従い、これに則って行われたものであるという、その宗教性を浮き彫りにする指摘であって、正に法的視点からのものである。これを法的視点に欠けるとして一蹴した原判決の「法的視点」こそが正に問題であって、理由不備、理由齟齬のそしりを免れない。
一八 選挙による是正
原判決は、「長年にわたる一審被告白石の玉串料等の支出が後日の県議会の審議(甲第八五ないし第九五号証)、報道等により明らかになりその結果何らかの世論が形成されたとしても、それ自体は一審被告白石の意思、目的と直接の関係がないから、同人の責任であるとはいえず、その批判ないし是正はその後に行われる知事選挙で選挙民の意思を反映させる方法によるべきである。」(三六丁表、裏)などと言うが、どうして、白石の意思、目的と直接の関係がないから同人の責任ではないなどと言えるのか。白石は、知事選の公約にまでして支出を強行し、知事として議会等で公言したのであるから、その意思、目的と無関係な筈はなく、まして、責任を問われないことなどおよそ考えられない。原判決のように憲法問題についてまで選挙で批判、是正を図れば足るというのであれば、およそ政治家については裁判所は不用となってしまうのではなかろうか。
一九 杞憂
原判決は、「一審被告白石の玉串料等の支出につき、それがやがて靖国神社を第二次大戦と同様の法的地位、法律関係に復活し侵略戦争を起こすことに繋がると一般国民に思わせる行為である(原審における一審原告安西賢二本人尋問の結果)と考えたり、靖国神社ばかりでなく全国にある護国神社への公人による公金の支出を助長し又は一般国民による特定宗教である神社神道の気風を呼び起こしてそれを助長し又は精神的な援助をすることになる(一審原告ら主張)と考えるのは、全く根拠に乏しい杞憂にすぎない議論であり、本件の玉串料等の支出がそのような結果を招くとは考え難い。」(三六丁裏)などとしているが、原審裁判官はどのような根拠で杞憂にすぎないと断じたのか全く不明であって、理由になっていない。
二〇 場所
原判決は、「その行為の場所が靖国神社等が主催した春、秋の例大祭、夏のみたま祭、護国神社の春、秋の慰霊大祭という限定されて数少なく我が国で一般に行われる死者の慰霊の季節である彼岸、盆などに合わせこれと同趣旨の祭の際に行われ、」(三七丁表、裏)などとしているが、行為の場所がまぎれもない宗教施設であることや、対象行事が恒例祭である大祭であること等を意図的に欠落させた上で、「限定されて数少なく」と勝手な認定をし、彼岸、盆などと「同趣旨の祭」であると明らかに事実に反する認定を行なっている。この点においても、理由不備、理由齟齬は明白である。
二一 以上述べたところから既に明らかなように、原判決は、判決としての体裁と結論だけは一応整っているものの、その理由は全く支離滅裂であって、理由不備、理由齟齬の違法は歴然としており、到底破棄を免れない。
第四 判決に影響を及ぼすこと明らかな法令違背(上告理由第三点)
一 弁論主義違反
原判決には、以下に述べるとおり、一審原告の主張を正しく摘示せず、歪曲した論点を自ら作出して独善的な結論を導くという、明らかな弁論主義違反がある。これが判決に影響を及ぼすことは明白であって、原判決の破棄は免れない。
1 現行民事訴訟法には弁論主義を直接宣言した規定はみあたらないが、弁論主義は民事訴訟で古来認められてきた大原則の一つであり、現行法も当然この大原則を前提としている。「裁判所は、当事者の主張しない事実を判決の資料として採用してはならない」という弁論主義の内容の中核となるテーゼは、不意打ちの防止や公平な裁判への信頼の確保などの要請に基づいてできあがった一個の歴史的所産である(有斐閣大学双書「民事訴訟法講義」一九五〜一九七頁参照)。
このような裁判に対する基本的要請は、行政事件訴訟においても変わりがないから、弁論主義の右テーゼは本件のような行政事件訴訟においても同様に貫かれなければならない(行訴法七条)。
2 主張の歪曲(その一)
(一) 原判決は、一審原告らが請求原因として、次のような主張をしたかのごとく事実摘示している。すなわち、
「1(一) 憲法二〇条三項は『国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。』と定めており、その文言上明らかなように、その行為が宗教的意義を有する限りいかなる程度のものであっても、国及びその機関(以下『国家機関』という。)の関心事になることは許されず、同条項の違反となる。宗教は、本質的に個人の良心に関する個人的、私的な、自然人の内面的な確信、純粋さに基づくものであって、国家の公的な関心に関わりがない。
(二) 一審被告白石は、愛媛県知事の立場で、第二次大戦中と同様に、靖国神社等の祭神に対する畏敬崇拝として、玉串料等を支出したものであり、その点で既に同条項に違反する。(以下省略)」(一一丁表)
(二) しかし、一審原告らはそのような主張はしていない。
(1) まず、右摘示(一)の部分については、そもそも、その文章の意味自体が不明である。「その行為が宗教的意義を有する限りいかなる程度のものであっても、国家機関の関心事になることは許されず、同条項の違反となる」とは、どういう意味か。ある行為が国家機関の関心事になると、憲法二〇条三項に違反するというのか。「その行為」とは何の行為をさしているのか。後段の宗教の本質に関する部分は、二〇条三項とどのようなつながりがあるのか、二〇条三項で問題となるのは「国家機関の宗教的活動」であって、「国家機関の関心事になること」が問題とされているわけではないことは、その文言上明らかである。一審原告らはこのような意味不明の主張をした覚えはない。
確かに、一審原告らは控訴審準備書面(五)で、信教の自由と政教分離の歴史的意義については詳述した(同準備書面一三九〜一四九頁)。その中で信仰の私事性と絶対的排他性を指摘し、近代憲法が信教の自由のためとくに政教分離という特殊な形態の保障を加えることになった由来を説明した。
原判決は右記述中の一部分を不正確に引用して歪曲し、憲法二〇条三項に関する意味不明の主張に仕立てあげているのである。
(2) 次に、原判決の摘示(二)の部分については、第三項で既に指摘したとおり一審原告らは、「一審被告白石は、愛媛県知事の立場で、第二次大戦中と同様に、靖国神社等の祭神に対する畏敬崇拝として、玉串料等を支出した」などとは主張していない。傍線部分は、一審原告らが主張もしていないのに原判決が勝手に付け加えた部分である。
(三) 一審原告らは以上の点に関しては次のように主張していたものである。即ち、「本件各支出は宗教団体である靖国神社、県護国神社に対し、玉串料、献灯料、供物料の名目でなされた公金の支出であるから、宗教団体が県から特権を受け、県が宗教的活動を行い、宗教団体に公金を支出したこと明らかであって、憲法二〇条一項後段、同条三項、同八九条に違反する。」(第一審最終準備書面第三「本件公金支出の違憲性」三「本件支出の違憲性」、控訴審準備書面(五)一八一頁)。第一審判決の事実摘示も右と同様である(第一審判決二三頁)。
また、本件は目的効果基準によって判断するまでもなく違憲性が明白であるということに関しては、具体的に次のように主張していたものである。即ち、
「本件は、信教の自由と他の人権の衝突を前提にその調整が求められたり、あるいは行政が公共の福祉実現のために行なう給付行政的サービス(生存権に基づく国民の福祉実現のための諸政策)を実施するにあたり、間接的付随的に特定の宗教とかかわりをもち、その憲法適合性が争点とされるような事例ではない。
本件は、愛媛県という行政主体が、特定の宗教団体の行事に積極的に参加するという明白な動機ないし意図に基づいて、その行事に玉串料等の名目で県予算から公金を支出することによって、当該宗教団体の存在理由と密接不可分の宗教的要素そのものと直接的なかかわりをもった事例である。
愛媛県の当該行為は、特定の宗教団体の宗教行事と一体化し、自ら進んで宗教上の行為を実行することにより宗教的活動を行なったものであって、その一事をもって、厳格な政教分離の原則、特に神社との厳格分離を要請する趣旨で制定されたと解される現行憲法二〇条ならびに同八九条に明白に違反するとさえ言い得る事例である。」(第一審最終準備書面第三「本件公金支出の違憲性」、控訴審準備書面(二)五一〜五二頁。
3 主張の歪曲(その二)
(一) 引き続いて原判決は、一審原告らが請求原因として、次のような主張をしたかのごとく事実摘示している。すなわち、
「2 同条項(二〇条三項)の意味がそうではなく、国家機関が宗教との関わり合いを持つことを全く許さないものではないとしても、同条項の禁止する国家機関による宗教的活動とは、『諸条件(国の社会的、文化的諸条件)に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合』すなわち、『その目的が宗教的意義を持ち、その効果が特定の宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為』をいうものである(最高裁判所昭和六三年六月一日大法廷判決、同昭和五二年七月一三日大法廷判決)。」(一一丁裏〜一二丁表)
(二) しかし、一審原告らは傍線のような主張はしていない。二〇条三項は、国家機関が宗教との関わり合いを持つことを全く許さない趣旨だなどと主張したことはないし、また、そのようなばかな主張をするはずがない。
行政が公共の福祉実現のために行なう給付行政的サービス(生存権に基づく国民の福祉実現のための諸政策)を実施するにあたり、間接的付随的に特定の宗教と関わりをもつことは当然ありうることであり、その場合でさえも全く許されないなどと主張した覚えはない。
(三) 津地鎮祭事件最高裁判決の基準による検討に関しては、一審原告らは次のように主張していたものである。即ち、
「本件は、津地鎮祭事件大法廷判決とはその事案を異にし、又、同判決の多数意見に対しては多くの批判が加えられているところであるが、右多数意見の判断基準に従った場合でも、本件各支出の違憲性は明らかである。」(第一審最終準備書面第三「本件公金支出の違憲性」三「本件支出の違憲性」4項)。
第一審判決の事実摘示も右と同様である(第一審判決二五〜二七頁)。
4 主張の歪曲(その三)
(一) さらに原判決は、一審原告らが「玉串料等についての一般人の宗教的評価」に関して、次のような主張をしたかのごとく事実摘示している。すなわち、
「(三) 玉串料等についての一般人の宗教的評価
靖国神社等に対する玉串料についての一般的な宗教的意識は、現在においても第二次大戦中と全く同一であり、差異がない。このことは、靖国神社等を第二次大戦中と同様の法的地位に復活することが国家護持運動の目的でありその対象となっていたことから考えても、明らかである。」(一二丁裏)
(二) これに対しては、一審原告らは呆れてものがいえないとしか言いようがない。
靖国神社等に対する玉串料についての一般人の宗教的意識は、現在においても第二次大戦中と全く同一であり差異がないなどと、我々の準備書面のどこをどう読めばでてくるのだろうか。この他にも「(本件の事態は)第二次大戦中と全く同一である」と一審原告らが主張したかのように事実摘示した箇所が随所にみられるが、そんな荒唐無稽な主張は一切していない。
一審原告らは、第二次大戦中と同様な事態にならなければ違憲ではないなどとは考えてもいないから、請求原因としてそのような主張をするはずがない。
(三) 一審原告らは、本件玉串料等の支出に対する一般人の宗教的評価に関しては、これが世俗的行事と評価される余地は全くないとし、具体的には次のように主張していたものである。即ち、
「(3) 本件玉串料等の支出に関する一般人の宗教的評価
津地鎮祭最高裁判決は、当該起工式を一般人の意識においては世俗的行事と評価しているものとしたが、その際、次の事情が指摘されている。すなわち、『本件起工式は、神社神道固有の祭祀儀礼に則って行なわれたものであるが、かかる儀式は国民一般の間にすでに長年月にわたり広く行なわれてきた方式の範囲を出ないものである』から、一般人の意識においては、『これを世俗的行事と評価し、さしたる宗教的意義を認めなかったもの』とした。本件玉串料等の支出に対する一般人の宗教的評価を考察するにあたり、右の視点から本件をみるならば、本件玉串料等の支出が世俗的行事と評価される余地は全くない。すなわち、靖国神社、護国神社の祭祀は、神輿巡幸などの祭祀行事を持つほかの多くの神社の祭とちがって、大祭であっても神社の境内地から外に出ることがなく、祭祀に伴う行事は宗教施設の聖域内で閉鎖的に行なわれ、そこでの宗教的儀式を具体的に目にする機会もほとんどなく、世俗化する機会をもたない。そのうえ、参列できる者が限定されている右のような靖国神社、護国神社の大祭にあたり、本件玉串料等の支出をしたことがある国民がどのくらい存在するか、それがごく限定された範囲にとどまることは指摘するまでもない。本件各支出行為の性格が『国民一般の間にすでに長年月にわたり広く行なわれてきた方式の範囲を出ない』といえないことはあまりに自明なのである。本件で問題とされているのは、まさしく右のような大祭に向けられた玉串料等の支出の性格であり、それに対する一般人の評価なのであって、およそ玉串料等の奉納がもつ一般的性格なり、一般人の評価を問題としているのではない。」(控訴審準備書面(五)一九五〜一九六頁)。
5 主張の歪曲(その四)
(一) 引き続いて原判決は、一審原告らが「一審被告白石の玉串料等支出の意図、目的について、次のような主張をしたかのごとく事実摘示している。即ち、
「(3)イ 一審被告白石の玉串料等支出の意図、目的は、靖国神社等につき、第二次大戦中と全く同一の法的地位、法律関係を復活することにあり、そのため知事に在任した四期一六年間の長期にわたり玉串料等の支出を継続し、(以下省略)。」(一四丁裏)。
(二) 一審原告らは傍線部のような荒唐無稽な決め付け主張はしていない。被告白石の支出の意図をそこまで決め付けなくとも、本件各支出の違憲性は充分基礎づけられるからである。
(三) この点に関する一審原告らの主張の大要は、次のようなものであった。即ち、目的審査(支出目的の宗教性の判断)にあたっては、行為者の主観的意図と当該行為に内在する客観的意味とを総合的に評価することが重要であって、結局、右観点から判断すると、本件公金支出の目的には宗教性が認められる(控訴審準備書面(五)一九一〜一九五頁)。
なお、第一審判決の事実摘示(「支出目的の宗教性」)も参照されたい(二九〜三二頁)。
6 主張の歪曲(その五)
(一) 引き続いて原判決は、一審原告らが「一審被告白石の宗教的意識」に関して、次のような主張をしたかのごとく事実摘示している。即ち、
「五 玉串料等支出の程度は、前記二のとおりであるが、一審被告白石は、愛媛県知事に在任した四期一六年間これを同程度に継続しており、本件はその一部にすぎず、一審被告白石の宗教的意識は、第二次大戦中の地方長官と全く同様に、国家神道をそのまま継続して信仰し、その信念に基づき、その強い意思表示である国家護持運動の一環としてしたものであり、一審被告白石個人としてみても、まさに祭神に対する畏敬崇拝の意識であった。」(一五丁表〜一五丁裏)
(二) 一審原告らは傍線部のような荒唐無稽な決め付け主張はしていない。被告白石の宗教的意識をそこまで決め付けなくとも、本件各支出の違憲性は十分基礎づけられる。
7 主張の歪曲(その六)
(一) さらに引き続いて原判決は、一審原告らが「玉串料等の支出が一般に与える効果、影響」について、次のような主張をしたかのごとく事実摘示している。すなわち、
「(1) その際の一般人とは……(中略)であり、従って、無宗教者を主とした宗教的な少数者の意見に従い判断をすべきである。」(一五丁裏)とか、
「(3) そのような神道の援助、助長、促進はやがて第二次大戦のような侵略戦争を起こす虞れがあると、一般人は考えているというべきである。」(一六丁表)とか、
「(4) 玉串料等支出の……(中略)、その累計額は多額となったばかりでなく一般人に、国家機関が靖国神社等を第二次大戦中と同様に国教的に援助しているものと思わせ、それを精神的に援助し、神道に対する特別の関心を呼び起こし、又は、その気風を醸成したものであり、一般人に対する影響は大きい。」(一六丁裏)。
(二) しかし、一審原告らがそのような主張をしていないことは歴然である。一審原告らの控訴審準備書面(五)の「効果審査の具体的適用」(一九七〜二〇〇頁)を参照されたい。
なお、第一審判決の事実摘示(「支出行為の効果」)も参照されたい(三二〜三五頁)。
8 以上指摘した主張の歪曲は、弁論主義違反で問題となる訴訟上の主要事実に関する歪曲に該当する。理由は以下のとおりである。
(一) 原判決は、その「理由」中で一審原告らの主張を次のように歪曲して取り上げ検討した。すなわち、
「一 一審被告白石が愛媛県知事として靖国神社等に対し玉串料等として支出した行為につき、我が国が第二次大戦中に採った靖国神社等に対する措置に対比して観ると、それと同様の行為ないしその虞れのある国家機関による宗教的活動に当たり、憲法二〇条三項に違反する旨の一審原告ら主張について検討する。」(二六丁裏)
(二) そして、原判決は次のように判断した。すなわち、
「本件において、一審被告白石が愛媛県を代表し、すなわち愛媛県自体が後記認定の第二次大戦中に国家機関がした行為と同様に、靖国神社、護国神社に対しその祭神を畏敬崇拝する目的で玉串料等を支出したという一審原告らの主張はその余の点につき判断するまでもなく、理由がない。」(二七丁裏)
「一審被告白石の支出の意図、目的は、……(中略)遺族援護行政を利用してその趣旨の政治活動として行ったものである。……一審被告白石が第二次大戦中と同様の法律関係、法的地位の靖国神社等の復活を意図ないし目的として行ったものとはいえない。」(三二丁裏〜三三丁表)
「一審被告白石の玉串料等の支出につき、それがやがて靖国神社を第二次大戦と同様の法的地位、法律関係に復活し侵略戦争を起こすことに繋がると一般国民に思わせる行為であると考えたり、靖国神社ばかりでなく全国にある護国神社への公人による公金の支出を助長し又は一般国民による特定宗教である神社神道の気風を呼び起こしてそれを助長し又は精神的な援助をすることになると考えるのは、全く根拠に乏しい杞憂にすぎない議論であり、本件の玉串料等の支出がそのような結果を招くとは考え難い。そして、終戦後長年にわたる国民の努力により築き上げた憲法九条の侵略戦争の廃止による我が国の平和は、既に国際社会において公認されており、将来においても国民の努力により維持されなければならないが、その法的関係は、一審被告白石の本件の玉串料等の支出によっては影響を受けるものではない。」(三六丁裏〜三七丁表)
(三) 要するに原判決は、本件公金支出の目的や効果が第二次大戦中と同様のもの、ないしはそれに繋がるものといえるかどうかという一点でしか判断していないのである。そして、第二次大戦中と同様のものとはいえないという至極当たり前の単純な理由で一審原告らの請求を排斥している。
従って、「本件公金支出の目的や効果は第二次大戦中と同様なもの、ないしはそれに繋がるもの」との主張は、原判決の主要事実を構成していたものといわなければならない。
しかし、一審原告らがそのような主張をしていないことは一件記録上明らかであるから、原判決の弁論主義違反もまた明白である。
もっとも、「(国家機関の行為の)目的や効果が第二次大戦中と同様のもの、ないしはそれに繋がるもの」でないかぎり違憲ではないという原判決の考え方は、原判決だけが採る極めて特異な考え方であって、明らかに憲法の政教分離条項の解釈を誤っており、その旨の主張は本来は主要事実などには該当しないものである。
原判決は、津地鎮祭事件最高裁判決で示された判断基準を標榜するが、右最高裁判決中のratio decidendiの部分(結論に至る上で直接必要とされる憲法規範的理由付けの部分)は何ら受け継いではいない。全く信じ難いことではあるが、原判決は、現行憲法の政教分離規定の解釈適用を行なうに際し、それらが設けられるに至った経緯と意義について、何らの考察も加えてはいないのである。そこで披瀝される「目的効果基準」なるものは制度趣旨に対する考察を全く欠いた珍無類ものであり、津地鎮祭最高裁判決で示された判断基準とは似て非なるものである。
第一審判決と対比してみれば、原判決の事実摘示がいかに異様で偏ったものであるかがわかるが、さらにその異様さは理由中の判断にも反映しており、その論理は無内容の一語につきる。原判決は、一応目的効果基準に則って判断したかのような体裁をとってはいるが、その基準たるや第二次大戦中と同様のものといえるか否かという一点のみであり、それはもはや「基準」という名には値しないものである。
二 経験則違反、採証法則違反
原判決には、以下に述べるとおり、経験則違反、採証法則違反に基づく、判決に影響を及ぼすことが明らかな重大なる法令違背がある。
1 靖国神社、護国神社の例大祭などの性格に関する原判決の違法
原判決は、靖国神社の春、秋の例大祭、夏のみたま祭、護国神社の春、秋の慰霊大祭はいずれも慰霊を主目的とするものであると判示する(判決書三三丁表、同趣旨の判示として同三四丁表、同三五丁表)。
(一) 右事実認定は、次のとおり経験則に違反し、且つ、採証法則に違反するものである。
(1) 靖国神社及び護国神社は、いずれも神社神道に従って祭祀を行うところである(甲第一、二号証)。
神社は元来、神霊を招請し、これを鎮座せしめ奉り、神霊のために奉仕を行う所である(甲第一〇三号証、神道の基礎知識と基礎問題二一一頁)。従って、神社には必ず祭祀の対象たる神霊(祭神)が存在しており、神社の祭祀には必ず神霊に対する奉仕という意義を伴っているものである(同書二一一頁)。
靖国神社及び護国神社は戌辰戦争以後の戦死者を合祀して祭神としているものであって、両神社の祭祀はすべて右祭神のために奉仕をするものであって宗教活動そのものである。
又、神社神道にとり、死は本来汚れたものであり、「死者儀礼」を神社において行うことは有り得ない(甲第六六号証四八頁)。
勿論、神社の祭祀において慰霊荒鎮の目的を有するものはあるが(甲第一〇三号証二一五頁)、それは神霊の不満を慰め、鎮めたりするものであって、死者儀礼としての慰霊ではない。
(2) これに対し、慰霊祭と一般的に言われているものは、死者儀礼を意味しており(甲第六六号証五一頁)、特に東京都の千鳥ヶ淵戦没者墓苑で毎年春におこなわれる国が主催する拝礼式は特定の宗教儀礼の形式によることのない献花の形式でおこなわれており、宗教色のないものである(甲第六六号証九六頁)。
又、広島平和都市記念碑で、毎年八月六日に行われる平和記念式典では宗教的儀式はおこなわれていない(同号証九八頁)。
(3) ところが、原判決は、靖国神社や護国神社の春、秋の例大祭や靖国神社のみたま祭が死者儀礼としての慰霊ではなく、祭神のための奉仕という、一宗教法人である靖国神社や護国神社の固有の宗教活動であるという本質に目をつむり、靖国神社等における例大祭と千鳥ヶ淵戦没者墓苑での拝礼式や広島市の平和都市記念碑での平和記念式典をほぼ同一視しているものであり(判決書三四丁表)、これこそ経験則に違反する事実認定であるとともに、採証法則に違反し、理由不備、理由齟齬の違法がある。
2 玉串料の定義に関する原判決の違法
原判決は「神道の定義によると、玉串料は、その金員を神社に奉納する申込みをし、神社でそれを受け付け、申込者が拝殿に参上し、儀式に従い神社で用意した玉串を捧げ、神官が一定の儀式の後、申込者に代わってその願い事を神に奏上するものである。」と判示する。
(一) 本件事件で重要なのは、およそ玉串料等の一般的な宗教的性格なり歴史的起源ではなく、靖国神社及び県護国神社によって執り行われた本件各支出対象行事(恒例祭)に向けられた玉串料の性格なのである。
従って、玉串料の性格を判断するにあたっては、常に支出対象行事が何であるかとの視点を欠くことができないものであるが、そのことを念頭においた上、玉串料の神道上の定義付けを考えた場合でも、右判示は高松高等裁判所独自の見解であって、右判示を基礎付ける証拠は何一つ存在しておらず、神道に対する無理解さを露呈した、およそ神道の定義とはかけ離れたものである。
(1) すなわち、右判示のうち、「玉串料はその金員を神社に奉納する申込みをし、神社でそれを受付け、申込者が拝殿に参上し、儀式に従い神社で用意した玉串を捧げ」るという説明の部分は、玉串料奉納行為の外形を単に説明したにすぎず、玉串料の神道上の定義付けの上では、ほとんど意味をなさない。
原判決の定義付けで問題なのは、「神官が一定の儀式の後、申込者に代わってその願い事を神に奏上するものである。」とした上、「賽銭は参拝者が自由に神社の拝殿の外に立って賽銭箱に賽銭を入れ、願い事を自ら行うものであり、玉串料奉納はその賽銭による方式より、より進んだ正式の神道の儀式の一部であると取り扱われている。」と判示し、玉串料が神官をしてその申込者の願い事を神に奏上してもらう対価であるかのごとくに判示していることである。
(2) ところで、神道上の祭祀には次の十の目的があるとされている(甲第一〇三号証「神道の基礎知識と基礎問題」二一五頁)。
ア 祈願 神に対して、或る願望の成就を願い求めること
イ 神恩報賽 神に対してその守護や神恵に対する感謝報恩の気持ちを表明すること
ウ 神徳頌讃 神に対して神威神徳の高い事を畏敬し、讃仰してほめたたえること
エ 献進 神に対してある気持ちを表明する為に幣物、供物等を捧げようとすること
オ 神意奉戴 神に対してその御心にそい、信奉の誠意を披瀝すること
カ 慰霊荒鎮 神霊の不満を慰め鎮めたり、神霊の荒びを鎮めたりすること
キ 報告 いろいろな出来事を神に報告し、祈願や報賽や神徳頌讃等の結果を奏上したり、又は新しい祈願を立てたりする前提とすること
ク 禊祓除災
ケ ト占
コ 霊験呪祝
(3) このように神社の祭祀には多様な目的があるのであるから、この祭祀にあたって奉納される玉串料の定義付けにおいては、右祭祀の目的をすべて包含するものでなければならない。
ところが、現判決の玉串料の定義付けでは、申込者の願い事を神に奏上するというものであり、これでは祭祀の目的のうち、祈願にだけ該当するものであって、この定義付けでは、他の目的の祭祀における玉串料に通用しないことになる。このことからしても原判決の玉串料の定義付けが失当であるということが、直ちに理解できる。
(4) それでは証拠上、玉串料はどのように説明されているか、以下に検討する。
ア 大江志乃夫意見書(甲第六六号証一一頁以下)では、玉串料は神饌幣帛料と同じく祭式をおこなうにあたって必要な物を神社側にととのえてもらうための献物であって、玉串料の支出そのものが直接の宗教的行為であると説明されている。
イ 愛媛県護国神社の元宮司であった証人正岡定幸は玉串料について次のように説明している。
「玉串料というのは玉串を捧げるから玉串料という。供物料というのは玉串を捧げないから玉串料といわずに供物料という。」(同証人調書五一丁)。
「玉串は普通一般に考えられることば幣帛みてぐら、即平たく申しますとお供え物にあたると考えていいと思います。それを榊の枝に木綿、垂手を添えて神前にお供えするのを玉串と申します。」(同調書一一丁)。
「とくに供物を奉るということは、とくに遺族の人々の心を集めて、それを形に、品物に載せて奉った心の通うお供えものであるがゆえに、私は大切な扱いをいたしております。」(同調書一一丁)。
玉串料、供物料とお賽銭との違いについて「(玉串は)先ほど申し上げたように幣帛みてぐら、すなわちこれは品物を考えていいものですね。それを榊の枝に木綿、垂手を添えて奉る。その榊そのものが申し上げましたひもろぎ、神の寄り添うものであるというように考えられる。それに添えて木綿、垂手を添う、それを品物に表したというように考えていいんじゃないかと私は思います。」、「(玉串料はお賽銭に比べて)そう簡単なものじゃないと思います。」(同調書一一丁)。
ウ 靖国神社の禰宜である、神野藤重申氏は、いわゆる岩手靖国訴訟の一審盛岡地方裁判所の証人尋問の際に玉串料について次のとおり証言している(甲第七二号証)。
「玉串料については、いわゆるお供え物をするという意味に解釈出来ます。それから、献灯料というのは、ご祭神に御明かしを捧げるという意味があると思います。いずれもご祭神をお慰めするという意味でささげられたものであると思います。」(同号証速記録一八丁裏)
「参拝する方から玉串料を奉納いただきまして、それによって神社において玉串を調整するという事でございます。」(同速記録一九丁裏)。
玉串料のお金は、単に神社に寄付をされるという事ではなくて、やはり玉串に代えてだし、祭神に対する崇敬をこめたお金であるというふうに理解してよろしゅうございますか、という質問に対し「はい、その一つの現れであるということに考えられます。」と回答している(同速記録四四丁表)。
エ 財団法人日本遺族会では玉串料について「玉串料は神社側のこうした儀式にそなえての準備に対する意味をも含め、参拝者の神へのお供え物ということになります」と説明している(財団法人日本遺族会の「昭和五十七年三月玉串料の公金支出は憲法上何ら問題がない」と題する書面)。
オ 国学院大学講師の武田秀章の意見書(乙第一二五号証の一)によると、玉串料について次のとおり説明されている。
神社の外側からなされる、種々の「奉納」「奉賽」の一つが玉串料であり、現在、玉串料支出は、必ずしも祭典への参列を伴わない、個人、団体からの神社への支出の総称である。
(5) 一、二審を通して提出された前記証拠によれば、玉串料について原判決が認定した「玉串料は……神官が一定の儀式の後、申込者に代わってその願い事を神に奏上するものである。」とする説明はなされておらず、他に原判決を裏付ける証拠もない。
3 献灯料の定義に関する原判決の違法
原判決は「靖国神社に対する献灯料は、神社に対しみたま祭に使用する提灯、蝋燭を奉納する代わりに金員を奉納する神道の儀式の一部である」と判示する。
(一) 右事実認定は次のとおり経験則に違反し、且つ採証法則に違反するものである。
(1) 靖国神社の禰宜である神野藤重申の前記速記録(甲第七二号証)によると、
「献灯料というのは御祭神に御明かしをささげるという意味があると思います。いずれも御祭神をお慰めするという意味でささげられるものであると思います」(同速記録一八丁裏)。
献灯料を奉納してもらって神社側で提灯を作って境内にささげるということかという質問に対し「はい。そのとおりでございます。」と回答している(同速記録二〇丁表)。
(2) 大江志乃夫意見書(甲第六六号証)でも、献灯料は単なる「燈明料」の寄進とは性格を異にし、まさに靖国神社という宗教施設の境内の多数の人が通行する参道に献灯を掲げるという行為であると説明されている(同号証一一頁)。
(3) 武田秀章の意見書(乙第一二五号証の一)でも「献灯料」を社殿や境内参道の燈明設置のために用いられるものであるとしている。
(二) 以上の証拠関係からして、靖国神社に対する献灯料はみたま祭において提灯を掲げるために交付される金員であって、献灯料が奉納されると献灯料に相当する提灯が必ず参道に掲げられるものである。
そうすると、原判決が靖国神社に対する献灯料を、神社に対しみたま祭に使用する提灯、蝋燭を奉納する代わりに金員を奉納する神道の儀式の一部であると判示するのは、申込者による提灯等の奉納行為を否定しているものであり、そのことは経験則に違反し、証拠に基づかずに事実を認定した違法がある。
4 供物料の定義に関する原判決の違法
原判決は「護国神社に対する供物料は祭神に対する供え物に代えて金員を奉納するものであり、神道の儀式の一部である」と認定する。
(一) 右事実認定は、次のとおり経験則に違反し、且つ、採証法則に違反するものである。
(1) 大江意見書(甲第六六号証)によると、供物料も広い意味では玉串料とまったく同じであり、神饌幣帛料を意味する(同号証一一頁)。神饌幣帛料の供進は神社祭祀の根幹をなす宗教的儀式である。
(2) 愛媛県護国神社の元宮司の証人正岡定幸によると「特に供物を奉るということは、特に遺族の人々の心を集めて、それを形に品物に載せて奉った心の通うお供え物であるがゆえに、私は大切な扱いをいたしております」(同証人調書一一丁表)。
供物料とか玉串料は、それを大祭の当日、御神前に供えることになっている(同調書二一丁裏)ものである。
(3) 右事実及び証拠関係からすると、護国神社に対する供物料は祭神に対する供え物として奉納される献物であって、供え物に代えて金員を奉納するというものではない。
5 一審被告白石の玉串料等支出の意図、目的及び宗教的意識の有無に関する原判決の違法
原判決は、一審被告白石の意図、目的は同一審被告の知事選出の際の支援団体の一つである県遺族会の会長として、その団体から靖国神社等に合祀されている軍人、軍属等の戦没者の慰霊のため支出して欲しい旨の要請があり、それに応じて、遺族援護行政の一環として、その行政法規の根拠に基づき、支出したものであると事実認定し(判決書三七丁裏)、更に一審被告白石の宗教的意識は一般人が他の神社に対し支出するのと同程度の個人的な祈願、すなわち主として次期の愛媛県知事への再当選を祈願するのにすぎず、それ以上に神道の深い宗教心に基づくものではないと事実認定する(判決書三八丁表)。
(一) 右事実認定のうち、遺族援護行政の一環としてのみ支出したものであるとの事実認定については、次のとおり経験則に違反し、且つ採証法則に違反するものである。
(1) 本件各支出は、いずれも靖国神社及び護国神社の祭祀に際して「玉串料」「献灯料」「供物料」として奉納されたものであり、客観的に考察すれば祭神に対する畏敬崇拝の念を表するとの性質が支出目的の中に含まれることを否定することができない(一審判決書一〇八頁、仙台高裁昭和六二年(行コ)第四号、いわゆる岩手靖国訴訟判決書一一四頁)。
(2) しかも一審被告白石は、一九七三年(昭和四八年)以来、愛媛県遺族会の会長であり、同人自身靖国神社国家護持運動に対する熱狂的支持を県知事として表明していた(甲第七八乃至八〇号証)ことは明白な事実である。
(3) これらの事実からすると、仮りに一審被告白石が玉串料等の奉納を遺族援護行政の一環として支出する趣旨を有したものであっても、靖国神社と結びつこうとする同被告の政治姿勢と切り離して本件各支出を考えることはできないし、それと同時に支出目的の中に、客観的に考察するならば祭神に対する畏敬崇拝の念の表明という側面が含まれることを否定することはできない。
(二) 又、原判決が一審被告の宗教的意識につき、次期の愛媛県知事の再当選を祈願するのにすぎないと事実認定したことは、次のとおり採証法則に違反し、経験則に違反するものである。
(1) 一審被告白石の本人尋問によっても、本件玉串料等の支出にあたって、次期の愛媛県知事への再当選を祈願するとの意識があったとの尋問結果は一切存在しておらず、原判決は証拠なくして右の如き認定をしている。採証法則違反も著しいものがある。
6 一般人の宗教的評価に関する原判決の違法
一般人の宗教的評価及び一般人に与える効果、影響という各要素の判定は、第二、二、1で述べたように、基本的には規範解釈の問題である。しかしながら、一般人の宗教的評価などの各要素を判定するために、原判決が前提的事情として判示した事実認定の過程についても、経験則、採証法則違反があり、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違背である。
(一) 原判決は、「玉串料等支出自体についての一般人の宗教的評価(それによる教育をしたものではないから、主として財政上の支出の点について検討する。)は、愛媛県知事であった一審被告白石が奉納したからといって、神社が宗教儀式等について特別の取扱をしたものではなく(原審証人正岡定幸の証言)、その申込方法も一般と同一であるところから愛媛県知事による支出も特別に靖国神社等と密接な関係を持つものとは認識していない。」(三〇丁)と事実認定した。
(二) 右事実認定は以下に述べるとおり、経験則に違反し、かつ、採証法則に違背するものである。
(1) 原判決が一般人の宗教的評価の根拠とした、「神社等が宗教儀式等について特別の取扱をしたものではない」、「申込方法は、一般と同一である」という事実認定は、経験則、採証法則に反する事実認定である。
本件玉串料等の支出については、靖国神社から愛媛県に対して、例大祭などの恒例祭に際し、「玉串料のお供えを戴き度」とする特別の案内書(乙第二号証)があり、それに応じて玉串料を支出し、玉串料を持参した職員に対しては正式参拝を要請しているのである。また、護国神社から遺族会を介して供物料の要請があり、知事または知事代理としての副知事が、春秋の大祭に参列し、祭詞を読み上げ、玉串拝礼第一順位者として玉串奉奠を行ってきた。さらに、大祭の前日において、参加者がさらに限定された儀式である「霊爾奉安祭」(秋季大祭)、「宵宮祭」(春季大祭)への出席の機会を与え、知事を玉串拝礼第一順位者としているのである(甲第五号証の一ないし四)。
これらの事実は証拠上明白な事実であり、しかもこれらの事実は靖国神社や護国神社が愛媛県に対し宗教儀式等について特別の取扱いをしていることを端的に示すものである。原判決がこれらの証拠及び事実を無視して前記認定したのは経験則に違反し、かつ、採証法則に違背するものである。
(2) 原判決の「愛媛県知事による支出も特別に靖国神社等と密接な関係を持つものとは認識していない」との事実認定は、経験則、採証法則に反する事実認定である。
本件玉串料等の支出に対する一般人の宗教的評価を判定するに当たっては、そもそも、「例大祭等に玉串料等を公金支出することの意味を知る機会も与えられていないし、靖国神社、護国神社の例大祭等の宗教的儀式を具体的に目にする機会もほとんどない。靖国神社、護国神社の祭祀は、神輿巡幸などの祭祀行事を持つほかの多くの神社の祭とちがって、靖国神社、護国神社の祭祀は大祭であっても神社の境内地から外に出ることがない。つまり一般社会人が社会的通念をかたちづくるにはあまりにも情報が少なすぎるのである」(甲第六六号証、四五頁)という事実を忘れてはならない。つまり、本件玉串料等の支出が世俗的行事と評価される余地は全くないのである。
かえって、靖国神社に対して玉串料等を支出していた青森、山形、岩手、栃木、熊本、宮崎、山口等の各県が、一九八二年一月から自治省の行政指導を受けて、次々と支出を取り止めたのは、靖国神社に対する本件玉串料等の支出が県と靖国神社等との密接な結びつきを一般的に認識させるとの判断にたって、政教分離原則の観点から、それぞれ中止したものに他ならない。
7 一般人に与える効果、影響等に関する原判決の違法
原判決は、一審被告白石の意図、目的の事実認定の後、続けて、「一審被告白石が内心の意思においてそれを意図したとしても、広く一般国民に対しその意図で玉串料等の支出を勧めるなどの自らによる宣伝活動のなかった本件においては、一般に一審被告白石が靖国神社等の例大祭等でその玉串料等を支出したことの内心の意思を知る機会に乏しく、実際にその気風を呼び起こしたものでもなく、事実上の影響力は微小である。」と認定した(三三丁)。
(一) 右事実認定は以下に述べるとおり、経験則に違反し、かつ、採証法則に違背するものである。
(1) 愛媛県知事による靖国神社の例大祭に対する玉串料等の支出は、遅くとも一九五八年(昭和三三)ころから始められ、一九八六年(昭和六一)一〇月まで毎年続けられた。
一審被告白石は一九七一年から四期一六年の間愛媛県知事の職にあり、一九八二年(昭和五七)本件訴訟が提起されたにもかかわらず、本件玉串料等の支出を継続してきた。
そして、一審被告白石は、靖国神社に対して玉串料等を支出していた他の県が自治省の行政指導を受けて、次々と玉串料等の支出を取り止めて行く中でも、愛媛県一県だけでも支出を継続していく旨を公言してきた。一審被告白石のこのような態度はマスコミ等によって、広く報道された。また。愛媛県議会においても、一九八二年(昭和五七年)三月定例会から、一九八五年(昭和六〇)九月定例会まで、毎回の県議会において、本件玉串料の支出が憲法の政教分離原則に違反するのではないかとの質問がくり返しなされ、県政上の重大な問題となったが、一審被告白石は、県議会内外において、玉串料等の支出をやめる考えはもうとう持っていない、今後とも玉串料等の支出を続けていく旨の答弁(甲第八五ないし九五号証)や「私が知事であるかぎり、一五〇万県民の総意として、靖国神社への玉串料の奉納と県護国神社の祭礼への県の参画は続けたい」(甲第八号証の一八)などと発言し、知事として本件玉串料等の支出の継続について強固な意思を有することを表明し続けてきた。
また、一審被告白石自らも、多数の機会における発言をまとめて書籍として出版し、そのなかで靖国神社の国家護持の必要性を強く主張してきた(甲第七八ないし八〇号証)。
このように、他の県が玉串料等の支出を取り止めていったにもかかわらず、あえて、本件玉串料等の支出の継続を強調してきたなどの一審被告白石の行為は、県民に対して、愛媛県と靖国神社とが強い結び付きを有するものであるとの印象を強く植えつけてきたのである。本件玉串料等の支出によって県民に与えた影響は絶大なものであり、「事実上の影響力は微小」などでは決してない。
原判決がこれらの証拠及び事実を無視して前記認定をしたのは経験則に違反し、かつ、採証法則に違背するものである。
第五 おわりに
一 今年もまた「八月一五日」が近づきつつある。われわれ日本人にとって今年の「八月一五日」はかつてなく暗く重いものとなっている。
昨年の一二月六日、韓国人元従軍慰安婦三五人が日本国を相手に計七億円の損害賠償請求訴訟を提起した。これまで、資料の不存在などを理由に国家としてのかかわり合いを否定して来た日本国政府も、動かし難い一二七点の資料が明らかとなったため、ついに国家としての関与を認めざるをえなくなり、本年七月六日、加藤官房長官は「国籍出身地のいかんを問わず、従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられたすべての方々に、改めて衷心よりおわびと反省の気持を申し上げたい」と政府の関与を正式に認め謝罪をした。そして、慰安婦には、日本人のほか、朝鮮人、中国人、台湾系中国人、フィリピン人、インドネシア人もいたことが明らかとなったこと、また日本の戦後処理をめぐっては、従軍慰安婦問題のほかにも、戦争により民間人が受けた被害に対する補償要求がアジア各地から噴き出し、アジア諸国は、従軍慰安婦問題の処理を、戦後補償に対する日本の基本姿勢を占うものとして注目していることなどを新聞各紙は報じている(愛媛新聞七月七日など)。
従軍慰安婦問題は、わが国の、またわが民族の歴史上の恥部であり、また元従軍慰安婦らにとっては、忘れることのできないかつ許すことのできない汚辱にまみれた記憶であろう。
アジア各地の元従軍慰安婦らにとって、さらに大戦中わが国によって多大の惨禍を受けたアジアの諸国民にとって、戦後は終ってはいない。
元従軍慰安婦問題など多くの未処理の問題は、われわれ日本人にとって、「八月一五日」を、被害者としての立場ではなく、加害者としての立場で把えなおすことを鋭く迫っているといえよう。
このような状況の中で、七月一八日、当然のことながら宮沢内閣総理大臣は、今年も、靖国神社への公式参拝を行なわないことを内外に表明せざるをえなかった。
二 被上告人白石春樹は、「靖国神社の国家護持が達成されない限り戦後は終らない」との信念を表明して、本件玉串料等の公費支出をし続けた知事であった。白石の右行為は、同人が戦前のわが国が内外にもたらした惨禍にいかに無反省であり、アジアの人々の心を踏みにじるものであるかは、言うまでもない。
同人はまた、玉串料等の公費からの支出のみならず、愛媛県護国神社については、知事在職中の一六年間毎年自らが(または副知事を代理として)各大祭に出席して、第一順位で祭詞を奉上し、玉串を奉奠して来たのである(上告人ら第一審第一四回準備書面第三、二項本件の事実経過参照)。
この間、一九七五年(昭和五〇年)ころから、内閣総理大臣らの公式参拝運動が展開されるようになったが、同年三木内閣は、「公式参拝に当たらない私的参拝の基準として、公用車を使用しないこと、玉串料を国庫から支出しないこと、記帳には肩書を付さないこと、公職者を随行させないこと、の四条件」を提示したり、またその後「公式参拝」とはどのようなものをいうか(一九七九年六月一四日の衆議院大井法制局長見解は、「公式参拝の実質的意味合いは、靖国神社に祀られている神とのかかわり合いを公的に認めようとする国の意思の表明とみるべきである」とし、「その具体的な表徴としては、例えば、閣議決定によって国の行事としてこれを行なうとか、玉串料を予算によって支出するとかのことが伴ってくる」として、このような公式参拝を政教分離原則に抵触するとしている)などが色々と論議された。これらからも明らかなとおり、閣僚らの参拝の際の玉串料の公費支出は、公式参拝か否か、つまり憲法の政教分離原則に違反するか否かを決定する重要な徴表とされて来たのであった。
ところが、被上告人白石春樹は、先に述べた同人の信念から、このような論議などはまったく無視し(この点は、原審準備書面(5)の第八で詳しく述べたとおりである)、知事在職中の一六年間の永きにわたって公費支出を伴った県護国神社の大祭にまさに「公式参拝」をし、また靖国神社への公費からの玉串料等の支出をし続けて来たのである。
このような白石の行為が政教分離原則に反しないとした原審判決は、戦後政教分離原則をめぐって政府や国会において論議されて来た経過をもまったく無視した、それこそ「独自の見解」を展開したものであり、信じ難いものである。このような判決は、国際社会において名誉ある地位を得ることにならないばかりか、わが国の信用を著しく失わせるものとなるであろう。
三 靖国神社が行なう春秋の例大祭、みたま祭や護国神社が行なう春季、秋季の各大祭などは、神社にとってもまた遺族にとっても、祭神に対し畏敬崇拝の念を表わす宗教上の極めて重要な儀式である(このことは、これらの神社も遺族らも争うことはない事実であろう)。
そして、これらの恒例祭において、玉串の奉奠もしくは玉串料の奏納は欠くことのできない枢要の宗教行為であり、神道固有の宗教的意義を有する行為であることも争いのないことである(現在において、玉串や玉串料についての一般人の認識が、玉串などが歴史的、宗教的に有して来た右のような宗教行為性を否定するほどに非宗教的なものであるとの認識に至っているとは言えないことも明らかであろう)。
加えて、被上告人白石は、護国神社については、各大祭に県知事として自らもしくは副知事を代理として参加し、祭詞を奉上し、玉串を奉奠しているのである。そして、これらは、一回きりの葬儀などとは異なり、永年にわたって毎年(春、秋など年に数回)行なわれて来ており、しかも靖国神社、護国神社以外の宗教団体に対しては、このような支出は行なわれていない。
右のような性質をもつ本件玉串料等の支出が憲法の定める政教分離原則に違反しないとすれば、一体どのような行為が憲法違反となるのであろうか。原審判決のいうような、戦前のような「国家神道体制」が復活しない限り、憲法違反の事実は出現しないこととなるであろう。
そして、玉串料等の支出が右のような性質を持つ限り、支出当事者が、玉串料等の支出についてどのような主観的動機もしくは意図、つまり選挙において当選することを祈願しようが、戦没者の慰霊や遺族の援護等の行政目的を託そうが、右玉串料等の宗教的性格が否定されるものでないことも当然の事理である。
この意味で、本件一審の松山地裁判決や岩手靖国訴訟についての仙台高裁判決は、右に述べた当然の理を素直に認めたものであるといえよう。
何が一体、原審裁判官らの目と心をくもらせたのだろうか。
われわれは、わが国司法のため、またわが国民とアジアの諸国の人々のために、このような原審判決が下されたことを悲しまざるをえない。
四 上告人らは、最高裁判所が、靖国神社、護国神社が戦前の国家神道体制のもとで果たしてきた役割に思いを致し、そして、現憲法において政教分離規定が設けられた歴史的意味を深く確認し、日本の戦後がアジアの諸国民から今なお鋭く問い続けられている現在において、わが国の進むべき歴史の方向を誤ることのない判決を下されるよう切に望むものである。